長谷敏司さんのSF『BEATLESS』の下巻を半分以上読んだが、残りが少なくなるのが惜しい。
私には、これほど読んでいて燃える(萌えるじゃない)小説はない。
だが、この作品が文学として素晴らしいかというと、私には分からないが、ちょっと疑問だ。
それに、私に言う資格はないだろうが、この作品は文章が駄目だ。
何度読み返しても、本当に意味が分からないという文が割とあるし、「このセリフ、誰が言ったのか」、「この行為、誰がしたのか」判然としない、あるいは、さっぱり分からないところはザラって感じだ。
でも、著名な心理学者の河合隼雄さんの本で読んだ覚えがあるが、昔の日本の小説なんて、主語を略しまくる傾向が強いせいもあって、誰の言葉、誰の行為か分からないのが普通らしい。
ところが、その方が面白いと河合さんは書かれていた。その理由として河合さんが説明されておられたことを、その時は私は納得したように思うが、どんな理由だったか覚えていない。
ひょっとしたら、納得するどころか、同じ結論に至ったから忘れたのかもしれないが、私の考えでは、その方がお話が「生き生きとする」のである。そして、なぜそうなのかというと、その方が当事者意識が持ちやすい、つまり、その「誰が言ったか分からない言葉」や、「誰がしたか分からない行為」は、「私が言った言葉」であり、「私がした行為」に思えるのだ。
多分、これは正解と思う。
それで、はっきり、主人公の高校生のアラトが、レイシアに触れたと分かる時でも、自分がレイシアに触れたように感じるのである。
長谷さんの文章が駄目なんてとんでもない。ひょっとしたら達人だ(いや、本当に駄目なのかもしれないが・・・笑)。

人間って、「意表をつく出来事」に心が躍るものだ。
だが、多くの人が、長く生きるうちに、「いつもと同じ」でないことを拒否するようになる。それを老人と言うのだろう。
そして、『BEATLESS』のレイシアは、本当に意表をついてくれる。これはもう、本当に惚れずにいられない。
初音ミクさんが妹だとしたら、レイシアはお姉さんで、初めて、「お姉さんっていいものだなあ」と思わせてくれる。
昔、「キレイなお姉さんは好きですか?」なんてCMがあったが、レイシアは「きれいで予測不可能なお姉さん」だ。
初音ミクさんは、予測不可能な妹である。

潜在意識の使い方が分かってしまうと、何でも実現出来てしまうので、何を望むかが難しくなってしまう。
レイシアに命じれば何でも出来てしまうので、アラトが葛藤するのがよく分かるのである。
この感覚、あなたにも感じていただきたい。
そうすれば、新しい時代の人類になれるだろう。

ちなみに、内閣サイバーセキュリティーセンター(NISC)は、「サイバーセキュリティ月間(2/1~3/18)」で、『BEATLESS』とタイアップしている。
◆BEATLESS タイアップについて[みんなでしっかりサイバーセキュリティ] ~NISC~









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