自我が芽生え始めた子供の時から、生きている間はずっと、「自分は何が得意か?」を問い続けなければならない。
なるべく早く、それをすることが好ましいのに、親が自分は得意なものがないので、子供に、その極めて大切なことをさせられない。
その得意なものについては、こう尋ねなければならない。
「いくらになっているか?」
「自信を与えてくれるか?」
どちらにも役に立っていないなら、つまらないものだ。

たとえば、「僕はシューティングゲームが得意」だとする。
それでいくら稼げているか?
あるいは、それによって敬われたり、周囲を威圧しているか?
どちらでもないなら、やっぱりつまらない駄目なものなのだ。
シューティングゲームで大金を稼いでいる者は少数ではあるがいるし、その実力によって自信に満ち、威厳や風格を感じさせる者もいるはずだ。

もちろん、本物の特技は一朝一夕で得られるものではない。
毎日欠かさす繰り返し、普通は10年はかかる。
若い時にやることは、本物になる可能性が低い反面、本物を含めたものでも、10代の頃なら、比較的短期間で得られる場合もある。

念仏を唱えることで力を得るには、1日1時間として、早くてやはり10年・・・しかし、それは、よほど熱心にやった場合で、普通は、おそらく、20年、30年以上だろう。
それも、縁あって10代前半から自主的に熱心にやるなら、わずか数年で得がたいものを得ることもあると思うが、まあ、稀なことと思った方が良いかもしれない。

「自分はこれで稼げる」あるいは「神的な力を得ている」というものを得なければならない。
なければ吠えろ。吠えて掴め。
だが、ほとんどの人は、吠える代わりに尻尾を振っている。
それを負け犬と言うのだ。

「私は何が得意か?」
それによって、実際に沢山稼いだり、敵を打ち倒す力があるか?
それがなければ、行き着く先は、負け犬の群れである。

人に親切にすることとか、美味しい料理を作れることも大切だ。
しかし、同時に、自分だけの特技・・・武器と言えるものが絶対に必要である。
それも、世俗の武器と聖なる武器の2つが必要だが、しばしば、それは1つで両方を満たすこともある。
1つで、物質界と精神界の偉大な武器であるには、よほど強力である必要があるが、その気になれば、誰でも持てる。ただし、天才でもない限り、一生を使うかもしれない。
普通は2つの宝を持つべきである。
その2つで、いつか3つ目を得るのである。それが古来からの賢者の教えである。









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