武道の極意、政治の極意、経営の極意、戦争の極意などという「極意」の意味は、小学館のデジタル大辞泉によれば、

「学問や技芸などで、核心となる大切な事柄。奥義。」

であるようだ。
類語は、奥義、真髄であるが、極意、奥義、真髄に共通する意味は、

「学問、技芸などで、最も深遠で到達し難い事柄。」

で、使い分けとしては、

「極意」は、奥深い技能について広く用いる。
「奥義」「神髄」は、より深遠なところにある物事の本質。「おうぎ」は「おくぎ」ともいい、古くは「奥儀」とも書いた。

とある。

ところで、願望成就の極意、奥義、真髄は、イエス・キリストが語ったことがオープンにされている。
それは、
「山に向かって、海に入れと言い、その通りになると信じて疑わないなら、その通りになる」
「願い事は既に叶ったと思って感謝せよ。そうすれば叶う」
である。

問題は、そこまで完全に信じることが難しいことだ。
だが、信じれば叶うのである。
しかし、もう1つ、厄介な問題がある。
妄信に意味はないということだ。

これはもう、子供の時の私に、神様が見せてくれたものだろう。
ある映画の1シーンを鮮明に憶えている。
小さな男の子が、アパートの高い階から落下しかけ、母親が、危うく男の子の手を掴んで、男の子は空中にぶら下がった状態になった。
ところが、建物の構造からか、母親は、男の子を引き上げることが出来ない。
いかに小さな子供でも、いつまでも掴んでいることは出来ず、母親の手の力も限界に近付く。
その時、男の子は、自分が落下していくと、天使達が現れて自分を支え、安全に気持ちよく地上に着地する様子を思い浮かべる。
そして、母親に言う。
「ママ、手を離しても大丈夫だよ」
幸い、この母子は勇敢な男性に見つけられ、助けられた。
本当に、いろいろ教えてくれる話だ。
男の子は、天使に助けてもらえることを信じていたが、幼い妄信では駄目なのだ。
しかし、確かに男の子は助かった。それも事実だ。
男の子の純粋な信念が、助けを呼び寄せたと言えるのかもしれない。

とはいえ、男の子が別の時に、屋上から飛び降りて、天使に助けてもらおうとしたら、彼は死ぬことだろう。
イエスも「神を試すなと聖書(旧約聖書詩篇91)に書かれている」と言った。
だが、私は、そんな馬鹿なことを何度もやったことがある。
車の多い車道に、何度も、目をつぶって飛び出したのだ。
今、思い出しても恐くなる(冷や汗が流れるほどではないが)。
馬鹿な子ではあったが、とにかく助かったのだ。

信念を持つことは難しい。
しかし、それを得れば、全てを得られる。
そして、自分を信じられなければ、何も信じることが出来ない。
信念とは、自分を信じること、すなわち、自己信頼に他ならない。
なら、少しずつ、自分への信頼を高めるしかない。
藤平光一氏は、毎朝、鏡を見ながら、「お前の信念はどんどん強くなる」と言ったらしいが、それも1つの方法だ。
だが、それが誰にでも合うとは限らないし、私には全く合わない。
ところで、アメリカの公式モットーは「我々は神を信頼する( IN GOD WE TRUST)」である。
皆がこれを覚えていた頃のアメリカは本当に偉大だった。
神を信じる者は自分を信じることが出来るのである。
そうだ。覚えてさえいれば良い。
自分は無限の力の所有者であることを、覚えているだけで良いのだ。
忘れるから、惨めな人生になる。

アニメ『BEATLESS』で、初めてレイシアとアラトが逢った時、レイシアはアラトに尋ねた。
「あなたは私を信じますか?」
アラトは、はっきりと「信じる」と答えた。
それで、レイシアは、アラトが自分の所有者に相応しいと判断する。
私は、この場面を覚えていれば大丈夫だと思うのだ。
なぜなら、ここに人間性の真実が現れているのだからだ。
実際、人生とは、信念を探す旅なのである。









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