昔、河合奈保子さんがテレビで、彼女が子供の時、母親が、「遅刻しても良いから朝食をしっかり食べなさい」と言っていたと話されていた。
一方、少食療法として知られる医師の甲田光雄さんは、朝食は絶対に食べてはならないと教えておられた。
どちらが正しいのかというと、河合さんの母親が圧倒的に正しい。
これは、医学的、科学的、超科学的な話ではない。
愛がある方が正しいとうだけのことだ。
河合さんは立派になったが、甲田さんから少食の指導を受けたある歌手は、50代でありながら70代の骨だと診断され、また、年齢の割にパワーがなくなり過ぎていると私は感じていた。
70歳を過ぎても「バリバリ」なミック・ジャガーは3食たっぷり食べているらしい。

ただし、母親が、「朝御飯はちゃんと食べなくてはならないものだと偉い人達が言っているから食べなさい」、「お母さんが食べろと言ってるのだから食べなさい」、「子供にきちんと朝御飯を食べさせている母親だと言われたいから食べなさい」などというなら、これはもう食べない方が良いし、実際、こんな母親の子供は朝食を食べようとしないだろう。
少食が心身に良いのは確かである。
だが、少食が、権威や盲目的な信仰になってしまっているなら、むしろ逆らってたっぷり食べた方が良い。

受験だって、良い学校に進学することが、本当の意味で子供が賢くなり、生きるための本物の武器が得られるからというなら、親は応援すれば良いし、そんな親の子供は勉強熱心である。
しかし、親の見栄で子供を評判の高い学校に入れようとしたり、何のエビデンス(根拠)も示せないのに、偏差値の高い学校に進むことは良いことだと決め付けているような親であれば、子供はたとえ受験のための努力をしても、心も身体も歪み、おかしくなるものだ。

願いや目標、あるいは、夢があったとして、その理由や動機が、愛や敬意であれば、全てうまくいく。
だが、虚栄心や快楽のためであれば、熱意は続かない。もし、そんな変な想いを持ちながら、奇妙な熱意を保つことが出来、虚しい努力を続けるなら、魂が穢れ、不幸を呼ぶことになるだろう。
『ラーマーヤナ』の最後で、ラーマは、真の勇者のしきたりとして、敗者である魔王ラーヴァナから教えを受ける。
ラーヴァナは、「私心があればやってはならず、私心がなければやりなさい」とラーマに言った。
私心とは、分かるような気もするが難しい。
だが、愛や敬意があることを私心がないと言うのであり、愛や敬意がない目標は私心が作った邪な幻想である。
逆に言えば、私心がないことを、愛と言うのであり、そこには自ずと敬意がある。
同じことをしているようでも、私心がないかあるか、あるいは、愛や敬意があるかないかで、全く逆の行動なのである。









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