法然にとって、なすべき唯一のことは念仏だった。
念仏が仕事と言っても良い。
岡田虎二郎の言い方を真似るなら、法然は、生活しながら念仏をしていたのではなく、念仏しながら生活していたのである。

私は、微かな呼吸(最も静かな呼吸)をすることが仕事で、他には何もしない。
私が誰かと言えば、微かな呼吸をする者である。
この仕事を忠実に行えば、報酬は神が支払ってくれるのである。

ラマナ・マハルシは『私は誰か?』で、以下のように述べている。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか? われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
◆「シュリー・ラマナアシュラマム」サイト内「教えの精髄」ページ ※『私は誰か?』はこのページから無料ダウンロード出来る。

なぜ、神にまかせることが出来ないのかというと、自我があるからだ。
自我が消えた意識を純粋な意識と呼んだ聖者がいたが、彼は次のように言っている。
「純粋な意識は深海のようなもので、何度もその状態になり、慣れてしまえば、海面である世間のものごとは子供の遊びになる。あまりに簡単なので、自動的に進んでいく。

ラマナ・マハルシも、財務省の長官や大事業家は、一見、熱心に働いているように見えるが、彼らは何もしていない、仕事は自動的に行われていくと言っていたと思う。
だが、自我があるために、自分が物事を行っているように思い、その思いがかえって仕事の邪魔になっている。
念仏が唯一の仕事である法然は、そのようなことがなく、最大の成果を上げることが出来たのだ。

私にとって、微かな呼吸をすることだけが、熱心に行うべき仕事である。
仕事を熱心にすれば、誰かが支払ってくれるのである。
そして、私の仕事では、支払い者は神である。
史上最高のプロレスラーだったルー・テーズは、ジャイアント馬場さんが亡くなった時、
「馬場さんはプロモーターとしても偉大で、約束したギャラは必ず払ってくれる誠実な人だった」
と述べていたが、神の誠実さは無限であり、その気前の良さも無限だ。
だから、ラマナ・マハルシが言ったように、安心すれば良いのである。

まあ、もう少し世間的に言えば(あまり言いたくないが)、微かな呼吸をしていれば、自我の活動による余計なことをしないので、結果、効率が最大になるのである。
普通の人は、自分の愚かな考えに固執し、効率を下げ、あらゆる停滞や障害を作り出して、滑稽に苦しんでいるのである。
神や仏は我々の内部にいるのであり、その内なる神や仏にまかせてしまえば・・・せめて、年長の経験豊かで有能なパートナーとして信頼すれば、そうでない者の少なくとも数百倍の力を発揮するのである。









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