妙好人(みょうこうじん)と呼ばれる人々がいたし、今もいるのかもしれない。
妙好人とは何かというと、曖昧なのであるが、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えている人の中でも、主にその人間性によって尊敬されている人と言えるかもしれない。
そして、こうと決まっている訳ではないのだが、よく知られている妙好人の傾向として、学歴はなく、社会的に身分が低いといったものがある。
ただし、では「清貧」な人かというと、そう言えるかもしれないが、ただの清貧ではないと思えるのである。
つまり、「清」ではあっても「貧」ではない。
金持ちといいうこともないが、健康で、ほとんどが家庭や経済でも恵まれている。
そして、あらゆる良いことの要因は、彼らが念仏を称えていることである。
例えば、こんな妙好人がいた。1960年代のことである。
見かけは、ただの50代のおじさんで、非常に小柄であり、身なりは質素で、雰囲気的には下層の庶民にしか見えない。
親切で愛想が良く、いい人なのだが、社会的な力は全くないとしか思えない。
ところが彼は、自分で自分の面倒を見れないような人間を7人も家に置いて世話をしているだけでなく、下宿を探している貧しい学生を見たら、部屋代はいらない、食事も出すから、ここから学校に通いなさいと言う。
経済面でも、それなりでなければ、こんな真似は出来ないだろう。
そして、小学校も出ていないのだが、偉い仏教の学者や僧とも交流があり、先生方は彼の来訪をいつでも非常に喜ぶ。
仕事は靴職人であるが、腕前は名人というか達人である。
そして、1日中、何をしている時でも、口の中で念仏を称えているのである。

元々、念仏には、法然、親鸞も、現世利益の強力な力があると述べている。
念仏を称えてる者を、地の神、天の神、菩薩、仏、その他の高次の存在が手厚く保護するのである。そうであるなら、不幸であるはずがない。
もちろん、これは宗教的な方便と思われるだろうが、論理的、分析的に探求すると、最後には、「現実的にそのようになる」ことが、極めて明らかに分かってしまうのである。
では、論理的に言えばどうなのかというと、難解ということはないのだが、説明し難い、あるいは、どうしても、言葉では上手く言えない部分もあると思う。
しかし、実際にずっと念仏を称えていれば、その効果は必ず出るのであるが、現代的な知識が多い人ほど、どうも馬鹿げていると思えてやろうとはしない。
私も、セールスマンの仕事をしていた時、「じゃあ、念仏を称えればオーダーが取れるのか?」と思ったことはある。
それに対しては、そうであるとも、そうでないとも言える・・・なんて答えたら、現代人であれば、「ではやらない」となるのも、別に責められる反応ではないだろう。
私の場合で言えば、実際に不思議な形で次々にオーダーが取れた。
しかし、やがて取れなくなった。だが、そのおかげで、もっと楽で給料の良い仕事に移ることになった。
つまり、短絡的に考えなければ、常に幸運なのである。

なぜそうなるのかについては、法然も親鸞も、根本のところでは、「観無量寿経」という経典を根拠にしていたのだと思う。
もっとも、それを読んで、いきなり納得出来る訳ではない。
だが、極めて直観の優れた人なら、一読すれば驚愕するほど真理が明瞭になるらしい。
そして、誰でも、繰り返し読めば、やがて分かるのかもしれない。









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