どんな子供を感心だと思うだろうか?
服をきちんとたたむ、靴をきちんと揃える、「いただきます」「ごちそうさま」をきちんと言う。
「きちんと」とは、常に例外なくということである。
そんな子供を見たら、「感心だ」「しっかりした子だ」「立派な子だ」と思うだろう。
つまり、そんな立派なことを、たまに、あるいは「だいたい」やるのではなく、「いつも」「忘れず」「間違いなく」やる子が感心なのである。
そして、そんな感心な子が駄目なはずがない。
そんな子供は、必ずやそれなりに周囲に信頼されていて、中には、勉強やスポーツが出来る子も多いだろう。
子供を立派にしたければ、日常生活の基本の1つをブレずに出来るよう、うまく導くことだ。
強制みたいなやり方ではなくね。
なぜなら、強制しないといけないのは、親が出来ないことだからだ。

大人でも、「感心だ」と思うことを、1年365日、1日24時間出来るなら、そんな人が駄目なはずがない。
一方、そんなものがなければ、いかに学歴が立派だったり、容姿端麗であったり、外国語が出来たり、また、努力家であっても苦難が多いだろうし、まして、取り得がなければ「まるで駄目男君」になるしかないだろう。
そして、感心なことを長年ブレずに続ければ、感服になる。
感服は、強い感心であり、敬意を生む。
敬意を払われれば、従来の世界でも、インターネットの世界でも成功する。それが表立って知られていなくても、雰囲気に現れる。

では、どんな大人が感心なのだろう?
それは、子供とそんなに変わらない。
ただ、大人の場合は、自分の強い意志で行うようなことが、その人に大きな力を与える。
今はもう知らない人が多いかもしれないが、ベニー・ユキーデという、マーシャルアーツ(全米プロ空手)の大変な強豪がいた。
体重の階級が上のムエタイ選手との試合で判定負けした1敗以外は全勝(58勝1敗)だった。
そのユキーデは常に聖書を持ち歩き、暇があると読んでいたらしい。
戦績に対しては、立派ではあるが感心はしない。しかし、常に聖書を読む、あるいは、聖書を手放さないことに対しては感心、あるいは、感服するのである。

キリスト教圏では、聖書を毎日読むことが感心なのだが、それは宗教的な意味だけではないのだと思う。
そして、そんな感心な人が駄目であることは考えられないのである。
つまり、毎日必ず聖書を読むのに、「ずっと失業している」「収入がひどく低い」「男に(あるいは女に)騙され続けている」「彼氏(彼女)が出来ない」ということはありえないだろう。
日本では、「ありがとう」「おかげさまで」「すみません」といった言葉を常に使うだけで良い。
なぜなら、日本では、言霊といって、言葉の中に神が宿っているからである。
これは神道的であるが、日本は仏教国でもある。
大抵の場合、常に念仏を称える人は実に感心なのであり、そんな人が駄目であることは絶対にない。

自然に「感心だ」と思えることを、自分の意志で行い、それがブレなくなれば、まあ、何の不安もないだろう。









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