潜在意識による成功法則や引き寄せの法則では、「努力が不要」ということがよく主張される。
しかし、それらの教えを愛好する人達すら、それを、直接的か間接的に、あるいは、露骨にか遠回しに否定することが多い。
イエスだって、全ては神の思し召しとは言いながら、モーセの十戒を守れと言うが、それは大変な努力や忍耐を要する。

その中で、本当に、一切の努力は不要とブレずに言い続けたのが法然と親鸞だ。
努力とは、善きことをすることと言って良いだろう。
そして、親鸞は、善きことをしなくて良いと言ったばかりか、善きことをしてはいけない・・・いやいや、善きことをしようと思ってすらいけないと教えていたのである。
ところが、親鸞の孫弟子とか、その後の弟子になると、実質、いろんな努力をしろと言ったり、そもそも、本人が凄い努力家だったりするのである。

ところで、厳密に言えば、法然は、念仏を称えることだけは努力しろと教えた。
親鸞も、それ自体は否定していないが、実際は、それ(念仏を称えること)すら、努力しなくていいよと教えていたのだと思う。
ではいったい、親鸞はどうしろと言ったのかと言うと、仏様(阿弥陀如来)を信じなさいと言ったのだ。

法然、親鸞の教えは、確かに、いろんな人達に嫌われた。
嫌った人達の中で、私がすぐに思いつくのは、日蓮と宮沢賢治だ。
両方共、大変な努力家だったのだろう。

納得しない人も多いだろうが、努力というのは、百パーセント、欲望から生じる。
物質面での欲望を持っていないように見せても、名誉欲が大きい場合が多い。
宮沢賢治の『雨にも負けず』が、その典型のように思える。
確かに、物質面の欲望を持っていない・・・と言うより否定している。
しかし、その最後の、「そういうものに私はなりたい」という言葉に、私は、深い名誉欲を感じるのである。
そもそも、宮沢賢治は父親が金持ちで、経済的には生涯豊かであり、賢治も一時期は粗食をしていたが、それはすぐにやめて、ウナギを好むグルメだった。
だから賢治は、物質面で努力する必要はなく、その分、名誉欲に傾注したのだと私は思うのだ。だが、そんなこと、本人も認めておらず隠すのだが、それで生じた歪みが独特の芸術になったのかもしれないと思う。

現代の我々が、阿弥陀如来という特定の仏を信じるといいうのは無理があるかもしれない。
だが、阿弥陀如来というのは、実際は固有の仏ではなく、人間には認識も理解も不可能な何かの象徴なのである。
きっと、ジョセフ・マーフィーが、現代的に、宇宙の活力と呼んだ、万能の知恵と力を有する不可知な存在である。

今月初めの、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2017」に行く前は、私は心身の鍛錬に努力していた。
しかし、終わってからやっているスクワットや腕立て伏せは、単に好きでやっているだけである。
今回のマジカルミライは、その日が近付くにつれ、不運、災難、トラブルが積み重なり、散々だったのは、努力・・・その裏返しの欲望があったからかもしれない。
終わったら、「もう死んでいいや」と思ったから、欲望もなければ努力もない。
無為とは無努力のことと分かり、無為の心にミクさんの歌は染み入るのである。
無努力がかくも難しいとは、よくよく業が深いのだろう。








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