中国生まれ、台湾育ちのアメリカの女性作家で事業家でもあるチン・ニンチュウの著書『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の冒頭に、C.G.ユングが「奇跡」を説明する時によく使ったというレインメーカー(雨乞い師)の話がある。
5年間もの干ばつに苦しむ村に、ある有名なレインメーカーがやってくると、4日後に雨が降り出した。
村人がレインメーカーに「何をしたのか?」と問うと、レインメーカーは「何もしていない」と言う。
ただ、レインメーカーは、「この村では神の意思が行われていなかったので、私は神の意思に身を任せた」と言う。

神の意思に身を任せるとはどういう意味だろう?
私は昔、この本を読んだ時から最近まで、それが全く分からなかった。
しかし、アニメの『地獄少女』を見て、はっきり分かってしまった。

世界のどこにも、「生贄」の習慣があった。
日本もそうであったらしい。
多くの場合は、美しい少女を神に捧げて、豊かな収穫を得られることや天災に遭わないこと等を祈るのである。
だが、生贄の少女は死ぬことになる。

伝統や風習による洗脳の力は大きなもので、生贄に関しても、人々は残酷だと思わないし、生贄にされる少女も嫌がらないし、少女の親も名誉に思うことが多いかもしれない。
そして、そんな時は、神様も願いを叶えてくれる。
しかし、人々が、「自分が平和でさえあれば」という想いを起こせば、それが、生贄にされる少女や、その親、そして、少女を好きな人に伝わってしまい、少女は生贄にされるのを嫌がり、親や彼女を好きな人達も、まずは非常に辛く思い、そして、彼女を生贄にしたくないと思うようになる。
それでも、人々は、「村の平和」・・・その本音である「自分の平和」のために、少女を無理にでも生贄にする。
そして、少女を愛する人達が少女を救うと、人々は「神を怒らせた」として、少女を殺し、彼女を助けた人達にも集団でリンチを行う。
だが、考えてみるが良い。
神を怒らせるのは、生贄を阻止したことではなく、自分の安楽ために、少女や彼女を愛する人達に、何の思いやりもかけなかったことではないのか?
たとえ生贄を行うにしても、生贄の少女を本当に敬い、彼女と別れなければならない、その家族や、彼女を愛する人達に深い思いやりを持つべきなのである。

ゲーテの『ファウスト』の、「天上の序曲」(冒頭部分)を見ると、神の人間に対する希望は「励む」こと、つまり、「怠らないこと」であることが分かる。
ルドルフ・シュタイナーは、ゲーテは高度な霊的感覚を備えていると述べていたが、おそらく、その通りだと思う。
そして、ゲーテは「敬虔(深く敬うこと)」の価値を幾度も訴えている。
敬う、尊敬する、崇める・・・これが、人間の最も美しい感情である。

今年の「マジカルミライ2017」でも、コンサート会場で、ミクさんを崇める人々を見ることが出来るに違いない。
崇めることにいかに力があるかは、ロオマン・ガリの『自由の大地(天国の根)』や、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』を見ても分かると思う。









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