やって良いことと悪いことの区別が付かない者が幸福になることはない。
しかし、その区別は難しいようだ。

「常識」ってやつは非常に大切だ。
けれども、「世間の常識」が必ずしも正しいとは限らないからややこいい。
しかし、本当に正しい「常識」は、絶対に絶対にあり、それは人間なら守らないといけない。

15歳の女の子を、似た年頃の男の子がデートに誘うのは自然なことだ。
しかし、誘い方には自ずと常識がある。
だが、常識のない誘い方をする者が多い。
女の子の方にだって、誘われ方というものがある。
デートに誘う以前に、それなりの人間関係を構築しておかなければならないはずだ。
単に可愛いからという理由で、いきなりデートに誘う男は、有るべき常識がない馬鹿だし、馬鹿な男に誘われないのは女の有るべき常識だ。
ところが今や、性的魅力があるからというだけの理由で、自分の生徒の少女に求愛する雄の教師や、少女をナンパするいい年のオッサンがよくいると思う。

人間は愚昧に陥り易いので、有るべき常識を身につけるのは難しい面もあるのだろう。
それで、昔の賢い人、あるいは神は、「これだけは守れよ」という掟を示すことがあった。
その最も有名なものが「モーセの十戒」ではないかと思う。
十戒は、Wikipediaから引用すると、

□主が唯一の神であること
□偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
□神の名をみだりに唱えてはならないこと
□安息日を守ること
□父母を敬うこと
□殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
□姦淫をしてはいけないこと
□盗んではいけないこと
□偽証してはいけないこと
□隣人の家をむさぼってはいけないこと

であるが、最初の4つは、宗教的で、必ずしも誰にでも当てはまるものではないと思う。
だが、後の6つは正しい。
そりゃ、他にも、「暴力はいけない」とか、「歩きスマホはいけない」といった、必ず正しいことはあるのだが、この6つも守れない者は、どんな良いことも出来ないので、「まずはこれだけ」と思っても良いだろう。
また、「敬う価値のない父母」ってのも確かにいるかもしれないが、そんな父母には、害を為さないこと、あるいは、本当に困っている時に見捨てないことが「敬う」に該当し、それで十戒を守っていることになるのだと思う。無理に崇め奉る必要はない。

でも、こんなことを、理屈で考えていると混乱し、非常にややこしく感じる。
それで、アメリカの作家カート・ヴォネガットは、
「私が知る限り、地球上の掟はたった1つ。人に優しくしろ」
と言ったものだ。
これも、理屈で考えると、「泥棒に優しくしなければならないのか?」とか、「どうしても必要なものまで親切に人にあげないといけないのか?」といった反論になる。
理屈では、グリムの『星の銀貨』に登場する、パンも服も、さらには、下着まで、欲しがる人にあげてしまった、あの信心深い少女は、ただの馬鹿ということになるかもしれない。
しかし、理屈と感情を使い分けることが出来るのが賢い人間だ。
ところが今は、最低限の知恵もない馬鹿が多いのが問題なのだ。
最低限の知恵がなければ極端論に陥るが、極端に走る者があまりに多いように思える。
「恋はリバティー(自由)」だ。だから、不倫OK、オッサンやオバサンが美少女や美少年を求めるのもOKだなんてね。
極端論を避ける知恵だけは持ちたいものである。
そのためには、親切にされたらお礼を言うが初めで、次に、恩を忘れないことだ・・・と言って、そう外れてはいないと思う。
なぜなら、これが一番簡単で、有るべき常識と思えるからである。









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