世の中は、合理化、効率化を追求するようになってきているのかもしれない。
しかし、それが本当にプラスの結果になるかは分からない。
それで、小さなことでは利益があるように見えるかもしれないが、大きな報酬を逃し、さらに、大きな災いをもたらすかもしれないのである。
合理化のためには計画が必要だが、計画があまりに厳格で細かいと、問題が起こった時に対応出来ない。
いや、それよりも、幸運が起こった時にも、それを受け入れることが出来ない。
「この幸運は計画にない」ってね(笑)。

もちろん、無計画や怠慢はもっと良くない。
しかし、どこか余裕が必要なのである。

会う約束の時間を決めたら、それに決して遅れまいと、1時間以上前に到着して待っているという人がいる。
なるほど、その人は、余程のことがない限り、約束を違えない。
しかし、人間、一時が万事であり、全てにおいて、そんな厳格・・・というか窮屈な人には誰もついていけず、信用はされても好意は持たれない。
約束を守るつもりが、不意の出来事で約束を破ってしまった時に、大きな幸運につながる重要なことが起こるのである。
ただし、条件がある。
1つは、約束を守るつもりが十分にあり、そのための努力をしたこと。
1つは、約束を破ったことを気に病んでいること。
1つは、約束を破って気に病んではいても、言い訳をしないこと。
この3つの条件が必要だ。

イスラム教では、約束をする時、「神の思し召しなら、それを果たしましょう」と、お互いに誓うといった話がある。
しかし、それを、自分が約束を違えてしまった時の「神の思し召しではなかったのです」という言い訳に利用する者がいるらしい。
約束を守れなかったのが、不可抗力なのか、自分の責任なのかは、ほとんどの場合、明らかだ。
そして、どう考えても不可抗力だった時、それは、神の思し召しかもしれない。
その結果が、自分だけの被害の場合は、「これは避けられなかったことだった」と思い、誰かに迷惑をかけた場合には、自分に責任がないと思えても、言い訳をせず、倫理や道徳、あるいは、信仰に反しない範囲でなら自分が責任を負う。
そんな時に、何かが起こるのである。









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