昔から、時代劇やアニメは、正義と悪の戦いだった。
時代劇では、ラストで、調子の良い音楽と共に、正義の味方が、悪の集団をバッタバタとやっつけ、『鉄腕アトム』では、アトムの「えーい!」の掛け声と共に、アトムが腕力を振るって悪を叩き潰した。

そんな中で、それは良くないんじゃないのかと言う者達が時々いた。
その理由は、まず、いずれにせよ、暴力は良くないということ。
また、誰が本当に悪いのか、そんなに簡単に分かったりはしないということ(だから裁判は難しい)。
さらに、そもそも、善と悪の区別が本当につくのかという、ちょっと哲学的な問いもあった。

『荘子』では、善と悪というのは、単に立場の違いに過ぎないと述べられている。
CLAMPの漫画『魔法騎士レイアース』のテーマは「この世に絶対的正義や絶対的悪はない」というものだったらしい。

だがまあ、「過ぎた利己的行為」を悪というのだと言って、ほぼ間違いはないだろう。
誰もが、自分の喜び、自分の欲望の満足のために、他者を犠牲にしているが、その度が過ぎれば良くないということになる。
では、どこまでが許容の範囲で、どこからが限度を超えているかは、あまり確とはしていないこともある。
昔は、会社の中で、男の上司が女子社員のお尻を触っても、「こんなん普通や」だったかもしれないし、公共の場所やオフィスでタバコを吸うこととなると、まず、悪いとは言われなかった。
しかし、いずれも、今は大悪である。

ところで、Amazonのプライムビデオで『地獄少女』が無料で見れるので、3話ほど観たが、これがなかなか考えさせられた。
毎回、必ず悪人が登場し、それは、疑い様のない悪である。
では、なぜ完全な悪なのかというと、自分の悪い行為に対して、後ろめたさがないからである。
『地獄少女』に出てくる悪人達は、根本的に良心を持っていない・・・つまり、サイコパスなのである。
良心を持っていない者相手に、道理は絶対に通用しない。だから、説得や教化は不可能である。
他人を苦しめる自分の行為に、後ろめたさ、後悔を感じているなら、まだ救いようがあるが、サイコパスの脳には、後ろめたさを感じる機能が、そもそもないのである。

中学2年の時に、さらっと読んだだけで確証はないが、吉行淳之助さんの『無作法のすすめ』によれば、紳士というのは、何かを思い出して、首がきゅっとすくむことがある人間らしい。
つまり、恥ずかしいことを恥ずかしいと、しっかり認識出来る知性や感情を持っている者が紳士なのである。淑女も同じと考えて良いと思う。
本物の紳士、淑女には、絶対的な悪人はおらず、それを概ね、「よき人」(今のJK言葉で「よき」人か)と言うのだろう。
尚、『無作法のすすめ』に、実際にそんなことが書いてあったかは、本当に自信がない。
そもそも、中学生が読むような本ではなかったような気がするし、それは父親が持っていた本で、それを読んでいて、父親に何か言われたような覚えもある。









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