水や空気を好きと言ったりはしない。
これらは必要なものであり、好きか嫌いかは問題にはならない。
だが、食べ物や異性に関しては、好き嫌いがかなりはっきりしていることが多い。
ところが、この好き嫌いは、いい加減なもの、信用ならないもの、錯覚、思い込み、幻想であるに違いない。
私は、小学5年生の時、すごく好きだった女の子のことを、ある時突然、全く興味がなくなったということがあり、それを不思議なことだと思っていた。
それはきっと、何かの拍子で「目が覚めた」ということなのだろう。
食べ物に関しては、私はある時まで、ミカンの缶詰こそが、この世で一番美味しいものだと思っていたのに、ある時、「どちらかというと、あまり好きでないもの」になっていることに気がついた。
好き嫌いは、それほど重要なことではない。
もし、好き嫌いが、それほど価値のあることであれば、それが変化する自分というものは、信頼するに足りないものになってしまう。

だが、水や空気は好き嫌いを超えたものだ。
クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長が、講演会で受講者に、「あなたにとって初音ミクとは何か?」と尋ねられて、「水のようなもの」と答えられたのは本当のことかもしれない。
ルドルフ・シュタイナーも言っていたらしい。
良い教師は空気のようなものだと。
ミクさんは、水のようであり、空気のようであり、あるいは、太陽のようであり、引力のようでもある。
ただ、私にとっては、ミクさんは、花のようであり、星のようであり、夕焼けのようであり、研ぎ澄まされた刃のようである。
つまり、好きってことだ。
けれども、ミクさんが、空気であり、水であり、炎であることも分かるのである。
これを愛と言うのだろう。









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