鈴木健二さんの『気くばりのすすめ』なんていう有名な本があるが、他にも気配りの仕方を書いた本は非常に多い。
気配りは、思いやりと同じようなものだろう。
しかし、気配りや思いやりなんてものは、「こうやってする」という公式に従ってやるものじゃない。
昔、NHKからつま弾きにされた竹村健一さんは、おそらく、その本が大嫌いで(鈴木健二は元NHKアナウンサーで、竹村さんは鈴木さんと何かあったようだ)、著書の中で、「気を使うな。頭を使え」といったことを書かれていた。
私も鈴木さんのドヤ顔は好きでない。

わざとやられる気配り、思いやりほど迷惑なものはない。
昔、仏教学者のひろさちやさんが著書に、「小さな親切、大きなお世話」と書かれていたのも、ちょっと似たところがあるのかなと思う。
小さな親切というのは、理屈の親切、公式的な親切、見栄の親切だ。
H.G.ウェルズの『ダイヤモンド製造家』という短編小説の中で、金に困窮していた男が、女達に見せ付けるために自分に金を恵んでくれた男に対し、「見栄も有り難いものだ」と思う場面があるが、そんな露骨な見栄はまだ良い。
しかし、「私は善人です」という自己満足でやる、小善人の小さな親切は、まこと、大きなお世話のものが多い。

ところが、体裁だけの気配りをする人がまともに見えるほど、全く気配りをしない者が蔓延している。
それが、スマートフォンを見ながら歩く人、電車の中でも、ずっとスマートフォンを見続けているような者達だ。
急いでいる人もいる狭い階段で、スマートフォンを見ながら、ど真ん中をノロノロ歩く。
スマートフォンにしか気がいかず、電車の中で、他人にバッグを押し付けても、全く何も感じていない。
センサーが付いているロボットの方がまだマシという、とんでもない生き物が、いつのまにか膨大に繁殖しているが、ヒアリとどちらが危険だろう?
ヒアリは人類を脅かすほどではないが、これら「気を持たない」者達は、一定数を越えると、間違いなく、人類を終わらせるだろう。

気配りは、公式でやるものじゃない。
経験で身につけるしかない。
まず、自分が気を配ってもらえずに辛い思いをする。
しかし、それだけでは、「では私は気を配る人になろう」とはなかなか思えない。
だが、さりげなく、自然に気を配ってもらった時に何かを感じ、自分も勝手に気を配るようになるのである。
あるいは、自分に対するものでなくても、自然で高貴な気配りを見た時に、やはり何かを感じることが出来ればそうなる。
鏡音リンちゃん、レン君の『リモコン』の一番最後のリンちゃんの「あの子みたいな人になりたい」というのが印象的に思う人は、ある程度、それに成功しているのだろう。
「気配りのすすめ」とかいう公式的な、下品で不自然な気配りを見ても、精神は覚醒しない。

人間は、弱い立場で頭を叩かれる経験が必要だ。
そして、どんな上流家庭に生まれたところで、そんな機会は必ず持つことになる。
ただ、家が金持ちだったり、頭が良かったり、容姿が優れていると、若いうちに、あまりそんな経験をせずに過ごすかもしれない。
そんな人は、歳を取ってから、ようやく、本当に人間を磨くための、そんな状況が巡ってくるが、それはいささか辛いかもしれない。
だから、金持ちであっても、子供を甘やかしてはならない。
そして、ひきこもりは、ひきこもっている間は、やっぱり、必要な経験を得られない。
だから、小さなバイト、コンサート、レストラン、スポーツ観戦・・・何でもいいから、なるべく外に出掛けることだ。
どこかのベンチャー企業が、「ひきこもりを加速する」をキャッチコピーに、バーチャルでコンサートに参加するようなテクノロジーを開発しているそうだが、私の考えでは、それは人類を滅ぼす。
私は、ミクさんのコンサートは、長時間かけてでも、コンサート会場に行きたいと思う。
ちなみに、昨日は、「マジカルミライ2017」のチケット入手のための抽選で6連敗となった。
抽選でのチャンスは後2回。
ミクさんへの愛が試される・・・いや、私はミクさんへの愛で出来ているのだし、そもそも、ミクさんの他に何もない。ただミクさんだけが在るのである。









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