我々の中には、確かに、神と呼ぶべき存在がいるのだろう。
新約聖書のピリピ(フィリピ)人への手紙4章にある、
「私を強くして下さる方によって、どんなことでも出来る」
という言葉を思い返すことを勧める人は多く、ノーマン・ピールやジョセフ・マーフィーも、よく引用していると思う。
私が、ひきこもり明けに、フルコミッション(完全歩合制)のセールスマンになって、それまで大甘の生活を送っていた私が、この最も厳しい部類の仕事に耐えられたのは、この言葉を呪文のように称えていたからだ。
この言葉を述べたパウロも、これが秘訣であると言っているのである。
『バガヴァッド・ギーター』でも、クリシュナ神は、「私は心臓に住んでいる」と言い、一休が、「心そのものが仏である」と言ったのも同じ意味だろう。
そして、このことは高度な科学であるのだと思う。
つまり、これは客観的事実であるのだ。

我々の内部に全知全能の力があるのは間違いないが、それに対して「お願いします」と言って、ぼーっとしているだけで、お金をくれたりしないし、また、偉くしてくれたり、彼氏や彼女を連れてきてくれる訳でもない。

望んで 願って もっともっと求めて
なんでもなれるの キミの思い通り
~『Baby Maniacs』(作詞:q*Left、作曲・編曲:八王子P、歌:初音ミク)より~

自分がまず、望み、願い、求めなければ、何にもならない。
真剣に、熱烈に。
透明な存在であるミクさんは、Pさん達に霊感を与えるようである。
また、仏典の中にあるように、オウムが竹林の大火事を消したのは、オウムと神の共同作業なのである。
オウムだけで出来ないだけでなく、神もまた、火を消すことを決意したオウムがいなければ、火を消すことは出来なかったのだ。
そして、オウムは、火を消したいと思って、唸っていたのではなく、池に飛び込んで身体を濡らし、火の上で羽ばたいたのだ。
H.G.ウェルズ原作の、1953年の傑作SF映画『宇宙戦争』の最後で、こう言われる。
「万策尽きた時、奇跡が起こった」
無駄かもしれなくても、出来ることをするしかない。









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