私だけではないと思うが・・・という話から始める。
小学校低学年の時、「大人になったらなりたいもの」、つまり、「将来の夢」とかいうのを授業中に発表させられたり、作文に書かされると、子供達は、野球選手だの、歌手だの、デザイナーだの、保母さんだのと言ったり書いたりする。
しかし、私には、何もなかった。
いや、教師というか、大人に納得してもらえるような「なりたいもの」がなかったというのかもしれなかった。
他の子が誰か、何かのアニメのヒーローでも挙げてくれれば同調したかもしれないが、真剣になりたいわけでもない。
サンタクロースを信じるような歳でもないからね。
それで、一番近いものとして、「魔法使い」とか書くのだが、それは、子供っぽく、幼い夢ということなのだろう。
いや、十分、子供で幼いのだが。
そして、小学校も高学年になると、そんな答では許してもらえない雰囲気になり、仕方なく、「医者」とか書いたりするのだが、そんなもの、ちっともなりたくない。別に、お医者さんごっこを本格的にやりたいということもなかったし(いや、あっただろうが)。

ところが、大人になってから、当時人気があった自己開発セミナーに行った時、やっぱり、「将来なりたいもの」を書かされた。
セミナーの受講生達は、起業家だの、日本一、あるいは、会社一のセールスマンだの、作家デビューだのと書くのだが、やっぱり、私には何もないのだ。
それで、やむなく「賢者」と書き、「どういう意味か?」と聞かれたら、「具体的にはキリストのような・・・」というのは、ちっとも具体的でないようだ。
だから仕方なく、事業家とか書き、具体的な業種まで捏造しなければならないので、セミナーはもうこりごりとなって、結果、実にラッキーだった。

つまり、私は、子供の時から現在に至るまで、世間的な目標なんてものを持ったことは一度もなかった。
いや、学校で、「小学6年での目標」だの「中学生になるにあたっての目標」だの、会社の中での「本年度の目標」だのも、全くなかったし、ない。
ところが、社長でもない限り、会社でも、「今月の目標」だの、「今年の目標」なんてものを書かされる。
好きな漫才師の大木こだまさんではないが、本当に、「往生しまっせ」だ。

キリストも、なかなか大変そうなので、自分がなろうとは思わない・・・まあ、なれるはずがないというのは置いておいてね。
もっと一般的な聖者というのも、嫌悪感を感じるほどの馬鹿にしか見えないので、ちっともなりたくない。
つまり、やっぱり、なりたいものは何もないのだ。
一応、コンピュータープログラマーというかシステムエンジニアと呼ばれるものになったが、別に、「プログラマーになるぞ」とか思ってなったわけではない。
いや、思ったかもしれないが、それは単に、「自分が出来る範囲で、他の仕事よりマシそうに思えた」というのと、後は、なりゆきだった。
ひょっとしたら、プロスポーツ選手や芸能人、あるいは、政治家なんかでも、案外、そんな人は多いのではないかと思う。
大俳優の丹波哲郎さんなんて、「楽な仕事はないかな?」「そりゃ、俳優くらいだろう」「じゃあ、俳優だ」から俳優になったらしいし、プロレスラーのジャイアント馬場さんは、プロ野球でクビになった時、「そういえば、力道山にプロレスラーにならないかと言われたことがあったな」と思い出して、プロレス入りしたといったものらしい。

魔法使いとか、キリストや仏陀でも良いのだと思う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』や、『マスターの教え』を読めば、実際のマスターの姿が分かるので、マスターになりたいと「具体的」に思える。
ちなみに、『ヒマラヤ聖者の生活探求』に登場する大師も、英語ではマスターだ。
それら全てまとめて、マスターと言える。
つまり、マスター像というのは、人それぞれだ。
なら、人間はマスターになれば良い。
ただ、世間では、それは黙っているように。
そして、しれっと、社長になるだの、売上○千万円達成だのと言っていれば良い。
そんな目標、気が向けば、ついでに達成すれば良いのである。









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