合氣道家の藤平光一氏の『氣の威力』というロングセラーの本がある(藤平氏は「氣」の文字にこだわった)。
その中に、こんな話がある。
藤平氏は、ある算数嫌いの小学生の男の子に、
「勉強しなくて良いから、算数の教科書を開いて、いっぺんだけ『算数が好きだ』と言いなさい」
と指示した。
やがて、この男の子は算数で一番になった。
藤平氏は「好き」という言葉を言えば「氣」が出るからだと説明したが、それは違うと思う。

上の話を見て、「これはいい!」と思い、算数嫌いの自分の子に、
「算数が好きだと言いなさい」
なんて言ったら、間違いなく、より算数が出来なくなる。
上の藤平氏の話では、「算数が好きだ」と言えば、勉強しなくて良いというところが肝心である。
その子は、事実として、算数が嫌いなのである。
単に、「算数が好きだ」と言わせたら、心は反発する。
しかし、ただ一度、「算数が好きだ」と言えば、勉強しなくて良く、遊びに行けるなら安いものである。
喜んで、「算数が好きだ」と言う。
その時、何が起こったのだろう?
算数嫌いな自我が退いたのである。
しかし、「たまたまうまくいった」のである。

藤平氏は、「重みは下にある」という、当たり前のことを言っても氣は出ると述べている。
こちらは正しい。
ただ、効果は限定的、一時的と思う(私はそうだった)。
確かに、惑星の上では重みは下にあるので、当たり前であるその言葉に自我は介入出来ず退く。
しかし、馬鹿でなければ、やがて自我は、
「飛行機が離陸前に滑走する時なんて、重みは猛烈に後ろにあるじゃないか」
「体当たりしたら、重みは前さ」
「ゴールキーパーは自分の方にやって来るボールの重みに耐えてるじゃないか」
などと言い出し、うまくいかなくなるのである。

好きという言葉にしても、もし、本当に好きだとしても、
「白石麻衣さんが好きだ」
と言えば、自我が出てきて(好きでも自分のものにならないし、ちょっとした関係も持てないのだからね)、氣は濁る。

「氣を出す」というのは、直接、藤平氏のような凄い人に指導を受ける場合以外は、よしたが良いと私は思う。
要は、自我が退けば良いのである。
しかし、自我を退けるには、イエスが40日断食して、悪魔の誘惑に勝って初めて成し遂げたように、難しいことである。
ところが、念仏は、自我を超えた存在に意識を向けることで、自然に自我を退かせる驚くべき賢い方法である。
別に、神秘でも何でもなく、科学に則った巧妙な方法なのである。
阿弥陀如来や観世音菩薩は、自分を超えた存在に決まっている。
ならば、「南無阿弥陀仏」とか「南無観世音菩薩」と称えれば、自我を超えた存在に意識を向けることが出来、自我は退く。
念仏は、氣を出すどころか、氣の根源と一体になる方法である。
ところで、私は、念仏の教科書は『歎異抄』だと思っている。
そして、上級者向けのテキストが『選択本願念仏集』であると思う。









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