「正直者は馬鹿を見る」って言葉をご存知と思うし、それが本当だと洗脳されているかもしれない。
こんなの大嘘である。
正直者は絶対に報われる。
また、「正直者は馬鹿を見る」とセットで、「嘘つきが得をする」、あるいは、少なくとも、「嘘つきが得をすることがよくある」と思っているかもしれない。
これも大嘘だ。
嘘つきは、必ず無残なことになる。

「あんな正直な人がどうして、こんな不幸なことに」
と言うなら、その人は本当は正直じゃなかったというだけのことだ。

「私は決して嘘は言わない。それなのに、こんな悪いことになった」
こんなことを言う者はもう救いようがない。
『化物語 つばさキャット』で、超優等生の羽川翼(高3女子)が、
「私は嘘をついたことがない」
と言った時の、阿良々木暦(あららぎこよみ。高3男子)の突っ込みが秀逸だった。
「嘘つき以外から、そんなセリフを聴くのは初めてだ」

嘘をつかない人間はいない。
いや、それでは足りない。
人間はたまに嘘を言うのではない。
いつも嘘を言うのだ。
好きな子に、好きだと言われて、純粋に喜ぶなかれだ。
その子が好きなのは自分だけだ。
まあ、騙されないとエッチが出来ない。その意味では喜んで良いのかもしれないが。

確かに、嘘の度合いというものはある。
凄く罪の重い嘘と、それほどでもない嘘だ。
嘘の度合いが低ければ、それで十分だ。幸せになれる。
だが、醜い嘘をつく者は魔に見入られ、悲惨な運命を呼び込む。
例外はない。

嘘つきは泥棒の始まりとか。
いや、泥棒もまだまだ初めだ。
やがて悪霊に取り込まれる。
それで良い想いでも出来ればまだ良いのだが、そうはいかない。
悪霊は手に入れた人間が苦しみ悶えるのが大好きだ。
いっそ悪霊になりたくても、それは無理だ。

救われる方法は、いくつかあるのかもしれない。
しかし、私が知る範囲では、その方法は念仏だけだ。
うまく、自我を超えた存在に意識を向ければ、速やかに救ってもらえる。
そのための、何とも手っ取り早い方法を、誰かが考えたのだ。
それが念仏だ。
一応、それを人類に教えたのは釈迦ということになっているが、よく分からない。

つまり、上記のような理由で、念仏を称える者は、悪霊に手を出されることもなく、安全である。
だが、ほとんどの者がそうしないのである。
なぜなら、ほとんどの者は、自分がそれほどの嘘つきだという自覚がなく、自分が悪霊の下僕にしかなれないことが分かっていない。
だから、どうにかしなければという切羽詰った想いがなく、念仏に出逢えないのである。









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