イエスは「隣人を愛しなさい」とか、「あなたの敵を愛しなさい」と言ったらしいが、そう露骨に言われても困る。
私には出来ないし、多分だが、誰にも出来ない。
だが、こう思うことは出来るし、思うべきなのだ。
誰か、嫌いな人を1人、思い浮かべ、こう思ってみよ。
「あいつにも、いろいろあるんだ」

親鸞の息子、善鸞(ぜんらん)は、京都にいた親鸞の元を離れ、関東で、親鸞に背くようなことを教え、親鸞は善鸞を絶縁した。
親鸞は、極楽往生のためには、念仏しかないと教えていたが、善鸞は、極楽往生のための特別な秘法を知っていると言ったらしい。
だが、私は思うのだ。
「善鸞にもいろいろあったのだ」
と。
だから、善鸞が、もし本当に、そんなことを言っていたとしても、それは、彼にもいろいろあったので、仕方のないことだったのだ。

あなたの彼女、あるいは、彼氏が浮気したとする。
怒るなかれだ。
「あいつにもいろいろあるのだ」
だから、仕方がないじゃないか?

私が子供の時に読んだ『悪魔の花嫁』という漫画で、ある空中ブランコ乗りの男が、同僚の男を殺した話があった。
ブランコにワックスを塗り、手が滑って落下するようにしたのだった。
ところが、サーカス団の親方は、そのことを知っていたが、黙っていた。
その理由はこうだ。
「人を殺すには、殺すだけの理由があったんだ」
殺した男にも、殺された男にも、いろいろあるのだ。
その「いろいろ」は、他人には決して分からない。

いろいろあるからって、許せる訳ではない。
しかし、まず、「あいつにもいろいろあるんだ」と思うことだ。
そうすれば、憎しみなんて、持ちようがない。
だって、誰だって、悪いことをいっぱいしているが、「いろいろある」のだから、仕方がないからだ。

殺したら、死をもって償うしかないだろう。
だが、「いろいろある」から殺したのである。
それが何かは、誰にも分からない。
しかし、確かにそれはあるのだ。

誰にも、いろいろある。
それが何か分かるのは神仏だけだ。
だから、裁くのも、許すのも神仏だけである。
阿弥陀如来と名付けられた、無限の光(叡智)と寿命(エネルギー)を持つ存在=無限者は、許すだけであるし、許す力を持っている。
これは、宗教ではなく、科学である。
「いろいろ」は因果である。
因果は「ゆらぎ」から生じる。
無限者はゆらぎを調整し因果を解消する。
それをしてもらうためには、自分を超えた存在である無限者に意識を向ければ良い。
そのための方法が念仏である。
念仏は宗教でもあるが、科学でもある。









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