法然の書の中に、だいたいの意味で、
「釈迦は沢山の教えを述べたが、最後にはその全てを捨て、ただ1つ、念仏だけを選んだ」
と書かれたところがある。
もちろん、釈迦が本当にそんなことを言った証拠は何もないだろう。
仏教の専門家の大半は、むしろ、それを否定するかもしれない。
しかし、私は、釈迦は本当にそう「思っていた」と思うのだ。

釈迦自身が「南無阿弥陀仏と称えよ」と言った訳ではないかもしれない。
しかし、釈迦がそう言ったと考えて差し支えないと私は思う。
とにかく、釈迦は念仏を称えることが、救われる唯一の方法だと言ったのだ。
では、念仏とは何かというと、仏(如来)を想うということだ。
しかし、仏に名が無かったり、単に、「仏」、「如来」と言うと、人間は意識を向け難い。
人間の意識は、具体的なもの・・・形や色や名前があるものに向きやすい。
そこで、『観無量寿経』では、阿弥陀如来の姿を詳細に説いているが、結局のところ、釈迦は、「阿弥陀如来の名を覚えていろ」と言うのである。
そのためには、「南無阿弥陀仏」と称えれば良いというのは、後の世の人が考えたことで、法然や親鸞は、その教えを確立し、伝えたのである。

念仏といえば、今は、浄土宗や浄土真宗のお葬式や法事で、お坊様が称えているが、それは近年に出来た慣習とはいえ、別に間違いではない。
また、法然や親鸞の時代は、念仏は死んでから極楽浄土に生まれるための方法と考えられていたが、それはそれで良い。
だが、最後にはやはり念仏を選んだ一休がそう考えていたはずだが、念仏とは究極にして万能の・・・何と言って良いか分からないが、現代的には「ツール」のようなものである。
つまり、自分が仏になり、今、ここを極楽浄土にするためのツールだ。
それは、科学的、論理的にも、何の矛盾もない、自然なツールであると思う。
私も、いろいろ考えてみたが、やはりそうなのである。
簡単に言えば、意識を自我を超えた存在に向け、自我を退かせ、没我、忘我、無我に近付き、自己を忘れる。
すると、仏という万能の生命力に触れることが出来る。
念仏は、そのための、スイッチであり、プログラムであり、ツールなのである。

ただ、いまだ、念仏を、正しい心の持ち主になって・・・あるいは、なろうとしながら称えないといけないと思っている人が多い。
そうではない。
近所のセーラー服の可愛い女の子をどうにかしようと思いながら称えても一向差し支えない。
むしろ、その方が良い。
まあ、親鸞は、「薬があるからとて毒を好むな」と言い、わざとそうすることはないとは言ったが、わざとそうしなくても、当然そうなるのである。
親鸞や一休は「俺なら、そんなことしか考えない」と言ったも同然であるが、それが彼等が立派な念仏使いであった証拠である。
「マジカルミライ2016」で、鏡音リンちゃんが歌った『スイートマジック』では、「甘い魔法」使いは、意地っ張りでわがままだが、念仏使いは、恥知らずで邪まである。
「恥知らずで邪ま」は、サイコパスの代名詞とも言える。









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