キリスト教に親しみを感じないのには、イエスが言った、
「女性を邪まな目で見たら、姦淫したも同じ」
のせいであるかもしれない。
いい女はやらしい目で見るのが当たり前だ。
私は、実はイエスは、
「女性を邪まな目で見るな・・・なんちゃって」
「汝の敵を愛せよ・・・なーんてね」
と言ったのだが、後ろの「なんちゃって」や「なーんてね」が省かれて伝わっただけなのではと思うくらいだ。

好みのタイプの女性を見て、邪まな思いを持つことを無理に押さえつけると、心を抑圧する。
心理学では、抑圧は無意識の中に押し込まれるが、やがて、その抑圧は変質して出てくると言われている。
怪しい心理学の学説の中にあって、これは実に正しいと思う。
だから、厳しく欲望を抑圧した中世のキリスト教のお坊さんは、みんなホモかロリコンになり、聖人ヅラしながら、隠れて現代のアダルト雑誌も顔負けの変態的なことをしていたのである・・・と思う(多分、当っている)。

しかし、法然なら、
「邪まな目で見ないに越したことはないが・・・まあ、見ても構わんから念仏しなさい」
と言ったと思う。
さらには、親鸞なら、
「邪まな目で見たっていいよ。いやいや、見るのをやめようなんて思っちゃあいけねーよ」
と言ったはずだ。
何と言っても、弟子(親鸞)は師(法然)を超えるものだ。

阿弥陀如来ってのは、隣の奥さんだろうが、セーラー服の美少女だろうが、邪まな目で見てしまう浅ましい人間を救おうと思っているのである。
しかし、
「じゃあ、阿弥陀様に救ってもらうために、俺は隣の奥さんをどんどんやらしい目で見るぞ、いや、なんとかしてやるぞ」
とまで思う、かなりIQが低い者に対し、親鸞は、
「薬があるからといって、毒を好むな」
と言っている。
ただし、親鸞は、そんな馬鹿でも念仏を称えると救ってもらえると言ったのである。

そんな阿弥陀様の広い心に感激して念仏を称えると、自然、あまり悪いことは考えなくなるものである。
しかし、悪いことを考えるままでも構わないのである。

まあ、ややこしいことを考え出したら念仏を称えることだ。
念仏を称えても、思考停止なんかしない。
むしろ、念仏を称えると、邪まな目で見ていた隣の奥さんに関して、ふと小粋なセリフが浮かび、その奥さんや周囲の人達を喜ばせることも多い。
こういうのを、大人の余裕とか言う。
法然も親鸞も、そんなことを言っていたと思う。









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