阿弥陀如来と観世音菩薩の関係は、キリスト教の父なる神とイエス・キリストの関係かなあと思った。
イエスは、「父なる神に願い事があれば、それは既に叶ったと思え。そうすれば叶えられる」と言った。
しかし、イエスだって神の力を持ち、病気を治したり、仕事を成功させたり(さっぱりの漁を大漁にした)、モノを与えたり(数個のパンと数匹の魚を数千人分に増やした)し、悪魔を追い払ったり、天気を良くしたり、他にも何でも出来るのだから、イエスに頼んだ方が、手っ取り早く確実である。

親鸞は、阿弥陀如来は無限の現世利益をくれると言っているが、親鸞や、その師の法然、あるいは、経典を見ると、阿弥陀如来自身がやって来て何かしてくれるというよりは、阿弥陀如来は、他の如来(仏)、あるいは、菩薩を派遣したり、あるいは、阿弥陀如来の威光により、神々が代わって面倒を見てくれるようである。
一方、観世音菩薩(観音様)は、本当は偉い如来なのだが、人々を救うために現世に下りてきて菩薩をやっているのであり、全く、イエスのようである。

復活後のイエスはいまもこの世にあるのかもしれないが、観世音菩薩も、変わらず、現世におられるのだろう。
イエスも慈悲深いが、観世音菩薩の慈悲深さは桁外れである。
そもそも、観世音菩薩と関係が深い阿弥陀如来が、いかなる悪人も差別せずに助けるのだから、そのポリシーは観音様も同じであり、「俺なんか助けてくれないのじゃないかな」なんて心配することはない。

『観無量寿経』を見ると、観世音菩薩や勢至菩薩は、阿弥陀如来とほとんど変わらないくらい立派であり、パワーも凄まじいが、阿弥陀如来の名を呼ぶ者の所に自ら出かけて行って世話を焼いてくれるらしい。
それで、我々は、根本的には阿弥陀如来を拝み、個々の願い事については、観世音菩薩に頼むのが確実である。
観世音菩薩の面倒見の良さについては、『法華経』の25章である『観音経』に詳しいが、とにかく大変なものである。

もちろん、阿弥陀如来や観世音菩薩というのは、高次の世界のことを人間に分かり易いように象徴的に表したものであろうが、せっかく解り易くしてくれているのだから、そのまま素直に受け取れば良いのである。
そこで、普段、たゆみなく「南無阿弥陀仏」と称え、現世的な願い事については、観音様に頼めば良い。
その方法は、やはり、「南無観世音菩薩」と称えたり、単に、「観音様」と言ったり、あるいは、観音様の真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」を称えれば良い。
こう言うと宗教的で抵抗を感じる人もいるだろうが、要は、人間より高い存在に意識を向け、余計なことを考えずに安心すれば良いのである。
また、「欲深であってはならん。清らかな心でないと救われん」なんて言う人は多いだろうが、少なくとも私は欲深で清らかでないことは仕方がなく、一生治るとは思えないし、そんな者を救ってくれるのが阿弥陀如来や観世音菩薩なのであるから、むしろ、聖人ぶらない方が良いと思う。

尚、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」で良いのであるが、実際の経典には、ただ、名を呼べと書いているのであるから、「阿弥陀如来」「阿弥陀様」とか、そのインドの原語である「アミターバ」と呼んでも良いだろうし、観世音菩薩も、「観世音菩薩」「観音様」「アヴァローキテーシュヴァラー」と呼ぶのも良いだろう。
また、『観音経』では、「観世音菩薩の力を想えば良い」ともあるので、その方が好みであれば、そうすると良いだろう。

宗教は権威的でややこしいが、上のように単純にやれば全てうまくいくだろう。
尚、仏様も菩薩様も、ポーズを決めておられるが、我々も、パワーポーズ(ガッツポーズ)を忘れてはならない。









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