ある、一般の人々にも好感度の高い宗教家が、「神はご自身を誉めてもらうために人間を創られた」と著書に書かれていたが、そこは騙されずに、「そんなわけないでしょ」と、ごく普通に考えないといけない。
いけないが、かつては私も騙された。
日本でも、西洋でも、あるいは、アジアでも、「神を誉めよ、神を讃えよ」と言うことは多く、そもそも、「讃美歌」とは、神を賛美する歌である。
だからといって、神が人間に賛美されたいと思っているというのは、当たり前に考えて変である。
だが、カリスマ性のある宗教家が言うと、当たり前でないことも当たり前になる。
いや、そのあたりは宗教家に限らず、妙な説得力を持った、押しの強い人間はいる。
ところで、そんな、おかしな人間に騙されないように科学的思考を学べという輩も多いのだが、科学者や、科学の試験で良い点を取る連中も、騙され易さでは引けを取らない。

だが、神を褒め称えることには意味がある。
それは自らを最も高い位置に置きたがる自我を退かせるためだ。
イエスが言った、「わが後方(しりえ)に退け、サタン」のサタンとは自我のことである。
社会のルール、万人の権利、生命の尊厳、友愛・・・などといったことも自我より上だと考えないといけないのかもしれないが、それはなかなか難しい。
「社会のルールや人間の愛といったものも大切かもしれないが、それよりも俺様が一番重要だ」
と思うのが人間なのである。
そこで、自分より決定的に偉い神という存在が必要になる。
では、神こそが、人間が、自我の暴走を抑えるために創った概念かというと、それも違う。
必ずしも神と呼ばなくて良いのかもしれないが、人間以上、自我以上の存在は確実にある。
それは、宇宙だろうが、生物だろうが、原子だろうが、熱心に調べればすぐに解ることだ。
そのような、大きなものから小さなものまで、あまりに精妙で完璧な仕組みが偶然に出来るはずがなく、そして、それらを人間は解明するだけでやっとなのに、それを創った何者かが必ずいるのである。

とはいえ、神の偉さもまた、人間にはほとんど理解出来ない。
だから、「神を崇めよ、讃えよ」と言うと、かえっておかしくなるのである。
子供が、本当に立派な大統領を讃えようとしたって、何も解らずに口先で誉めることしか出来ないのと同じだ。
だが、子供だって、大統領は自分よりずっと偉い存在だと意識すれば、大きく向上するのである。
それと同じで、人間は、どのくらい、そして、どんなふうに偉いのかは解らないが、自分より確実に偉い存在として意識を向ければ、それに近付くし、おそらく、その偉い存在も意識し返してくれるのである。
その、自分を超えた存在を意識する良い方法が、マントラ(真言)や念仏といった祈り言葉である。
常にマントラを唱えていれば、少々アレ(怠慢、傲慢、ヘタレ、逸脱)であっても運に恵まれるだろう。
それは、もっと深く考えても、理屈で解ることだと思う。









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