望みを実現するには、昨夜書いた「ぶれない」ことにも通じるが、「どっしり構える」ことが大切だ。
だが、いちいちこれらのことを意識しなくても、ぶれずに呪文を唱えていれば、自然、「ぶれない」「どっしりとした」心を持てる。
それは論理的なことだ。
ぶれるのは、余計なことを考えるからだが、呪文を唱えていれば、余計なことを考えない。
また、どっしりしていることが出来ないのは不安だからだが、呪文、真言、念仏を唱えることで、自分そして人間を超える存在を意識すれば、自ずと心が大きくなる。

「どっしり構える」ということについて、もう少し考えてみたい。
どっしり構えることが出来ず、うろうろそわそわしている者、きょどっている者には何も出来ない。
逆に、少々愚鈍であったり、傲慢であっても、どっしりしている者は、案外になんでもうまくいってしまう。
子供の時や若い間は、軽薄さによって学ぶことも多いが、ある程度の年齢になれば、どっしりすることを覚えなければならない。
この点、イエス・キリストは、「父なる神は、お前達の髪の毛1本1本を数えるほど、お前達を気にかけて下さっている」と言って、安心感を与えることで、人々の心をどっしりさせようとしたのだと思う。
だが、キリスト教では、旧約聖書による伝統のために、神の名をみだりに唱えることが出来なかった。
しかし、念仏では、仏の名を、なるべく多く唱えるべしと教える。
それで、キリスト教では、アリストテレス以来の論理性、合理性で人々を導こうとするところがあるのかなあと思う。
しかし、呪文、真言、念仏ほど簡単で効果的なものはない。
だが、この2つ(呪文と論理性)を合体させると、さらに強力だ。
『To Loveる ダークネス』という漫画で、宇宙の支配者の第3王女である14歳の可憐なモモが、主人公のリト(高校2年生男子)に、「あなたは宇宙の王なのだから、どっしり構えていればいいのです」と言う場面があったと思うが、我々も、宇宙の王女にそう言われたと思えば良いのである。
実際、「私」は宇宙の所有者なのであり、宇宙の王と言えるのである。
それを自覚し、どっしり構えることで不可能はなくなるだろう。
そう思えるようになるためには、呪文を唱えることが一番である。
どんな呪文にするか困ったら、自分の干支の守護仏(あるいは自分が好きな仏様)の真言で良い。
干支と仏の関係がどうなのか、そもそも、本来、関係があったのかどうかは私は知らない。
しかし、そのような関係付けが出来、それが広まったこと自体、1つの縁である。
「干支 守護仏」で検索することを手がかりにすれば、自分の干支の仏様の真言も簡単に見つけられるだろう。









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