お坊様に聴いた話だが、親鸞が法然に、結婚相談をしたそうだ。
親鸞は、戒律に反するが、結婚したい人がいたのである。
すると法然は、「それで念仏が唱えやすいなら結婚しなさい」と言ったそうだ。
そりゃそうだ。
一番肝心なのは念仏を唱えることで、それは戒律に優先する。
さらに、肉食した方が念仏をし易かったのか、親鸞はそれもやっていたそうだ。
だが、親鸞の息子は出来が悪く、「俺は親父から秘法を教わっている」とか言って親鸞を怒らせたというが、さあ、それはどうだろう。
息子は遠い地にいたのだし、通信手段といえば手紙しかなかった時代だ。それも、届くのがいつになるか分からないし、そもそも、ちゃんと届くかどうかも甚だ怪しい。
電子メールやSNSがある現代ですら、メッセージが誤解されることも多いのだから、親鸞と息子も、何か誤解があったのだろう。
そう考えた方がむしろ自然と思う。
息子も、ちゃんと念仏が第一と教えてはいたのではないだろうか?

破戒の僧と言えば一休が有名だが、一休も親鸞も、弟子達には戒律を守らせた。
ある程度のレベルまでは、きちんと身を慎むことが大切で、法然も、親鸞だから、嫁をもらうことにも同意したのだろう。
ちゃらんぽらんな人間なら、嫁をもらったり、放埓(勝手きまま)をしたら、念仏を唱えなくなる恐れの方が大きいだろう。

般若心経だって、偉い先生達は難しい解釈をして下さっているが、それ(先生方の難しい解説)、役に立つのかと言えば、全くそうではない。
般若心経って、単に、「呪文を唱えよ」と言っているだけで、呪文を教える前に、一応、なぜそれが良いのか理屈を書いているのだが、それが滅法難しい。
難しいだけに誤解を与え、百人が解釈すれば百通りの解釈になる。
それで、「俺が正しい。あいつの解釈は駄目だ」なんて不毛な争いになる。
きっと、書いた当人の真意は、どの解釈とも全然違うし、そもそも、書いた人すら、「あれ、俺、どんなつもりで書いたのだろう?書いた時には、何かポリシーもあったような気がするんだが」程度ではないかと思う。
だが、般若心経の呪文は、ちょっと長過ぎるように思う。
呪文の効能というのは、「無駄なことを考えない」と「自我の増長を消す」だが、中山正和さんが指摘したように、般若心経の呪文は、前者の「無駄なことを考えない」の効果を強く狙ったのだろう。謙虚な人向きと言えるかもしれない。
謙虚でない人には、神仏を直接感じさせるもの(念仏や真言)が良い。

ところで、別に覚えなくて良いが、毎朝、ガッツポーズ(パワーポーズ)をすれば、何もかもうまく行き過ぎて恐くなるだろう。
ガッツポーズで出てくるテストステロンというホルモンは、呪文も唱えやすくするのだと思う。
昨日も書いた通り、呪文、念仏、真言の効果は極めて論理的で、やりさえすれば、まるで駄目男君でも、引きこもりでも、ネット廃、ゲーム廃でも一人前になるだろう。
ミク廃はさらに有利なのだが、それについてはまた述べよう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ