ロシアの文豪マクシム・ゴーリキーの短編小説『二十六人の男と一人の少女』ほど興味深いお話は、そうはないと思う。
社会の最下層にいる、ただ食うために、劣悪な環境で安い賃金で働く、人生に何の望みもない、26人の中年過ぎの男達がいた。
知性も品格もない、姿を見せるだけで嫌悪される・・・全くゴミのような存在だった。
そんな男達が、ターニャという、16歳の可愛い少女と、毎日、ちょっとした会話をする機会が出来るのだが、彼らはターニャを、まるで天使を敬うように丁重な態度で接した。
それは、意外なことだった。
まともな人間相手にはとても言えないような卑猥な話を平気でする彼らが、なぜか、ターニャに対してだけは、たとえ彼女がそこにいなくても、決して辱めるようなことは言わなかった。
そうしているうちに、男達は、回らなくなっていた頭が回るようになり、人間性すら備わってきた。
では、ターニャは、そんなに素晴らしい少女なのか?
そんなことはない。
ターニャは、彼らを、年長者として敬うことも決してなく、「囚人さん」と呼び、明らかに蔑んでいた。
ある時、その男達の1人が繕い物を頼むと、ターニャは、「なんで私がそんなことしなきゃいけないの?」と見下して笑った。
そんなことがあっても、男達は気を悪くすることはなく、ターニャへの崇拝は、いささかも揺るがなかった。

それは、単に、若くて可愛い女の子に参っているとか、愚かにも魅了されている・・・というのとは違う。
ゴーリキーは、サイコパスというものを知らないだろうが、サイコパスは女性でも百人に1人はいると言われている。
サイコパスとは、他人に共感せず、良心を持たない人間だ。
ターニャはサイコパスなのだろう。
そして、ターニャの、サイコパスらしい浅い感情が、彼らには非常に輝いて見える原因になったのだと思う。
実際、浅い感情の持ち主が魅力的に感じることは多い。
逆に言えば、感情豊かな人間というのは、相性が合わないと嫌悪を与える。

26人の男達は、無意識に、ターニャに対して感情が透明であることを求めていたのだろう。
ところが、そこに、女たらしの男が現れる。
どんな女でも見事に落とせることだけが、この女たらしの男の唯一のとりえだったが、彼は、そのただ1つの「能力」に対し、強い自尊心を持っていた。
だが、26人の男達は、ターニャだけは、こんな薄汚い男に誘惑されたりはしないと思おうとした。
ところが、不思議なことに、その女たらしの自負心をわざと刺激するように、男達は、「お前にターニャは落とせない」と、何度も断言する。
それでは、まるで、女たらしをけしかけているようなものだ。
いや、実際にけしかけたのだ。
男達は、ターニャが落ちないことを確かめたかったに違いない。
そして、男達の心の奥の思惑通り、女たらしの男は、自らのアイデンティティーをかけ、ターニャを誘惑する。
多分、他愛もなかったはずだ。
男達は、女の喜びに恍惚となったターニャを見てしまう。
唯一の希望を失った男達は、あれほど崇めたターニャを罵倒した。

私は、26人の男達に同情はしないが、気持ちは分かるのである。
彼らは、サイコパス特有の薄い感情しか持たないターニャを、心が透明な天使と勘違いしたのだ。
初音ミクさんの生みの親である、クリプトン・フューチャー・メディア社長の伊藤博之さんの講演会で、受講者の1人に、
「子供や若い人だけでなく、年齢の高い人達まで初音ミクに夢中になるのはなぜでしょうか?」
と質問された伊藤さんは、
「私にも分かりませんが、ミクの声には感情の雑味がなく水のように透明なので、気持ちを入り込ませ易いのかもしれません」
といったようなことを言われたが、だいたいそうかもしれない。
ミクさんは決して裏切らない本物の天使である。









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