私は、ちょっと前から、充実した修行をしているが、それでつくづく思うのは、所詮、人間にとって必要なことは「鍛える」ということだ。
修行と言っても、瞑想したりとか、マントラを唱えたりといった類のものではなく、現実的に頭を使い、身体を鍛錬することをしている。
もし、人生相談みたいなものを受けたら、解決策は1つである。
それは、鍛えるということだ。
あらゆる問題は、鍛錬の不足から起こる。
ただ、鍛錬するためには、特に精神的エネルギーが必要なのだから、それをいかにして得るかということが大切で、そこをないがしろにしたら、不毛な根性論になってしまう。
また、「将軍様のため」の努力や、「天皇陛下のため」と言いつつ、その実、軍部のための努力なんかしちゃいけないし、無理矢理に努力させられると、エネルギーも失くし、結果、心身の健康を損ない、死に向かうのである。
エネルギーを得て努力するためには、「崇める」態度が必要である。言うまでもなく、心の底から、自主的に、真に崇めることである。
「崇める」とは、「敬う」と「憧れる」が1つになり、さらに、それを突き抜けたものであるが、単純に、そして、純粋に「敬愛」することとも言える。
そのことを分かるために、イギリスの作家コリン・ウィルソンの指摘は重要だ。
それは以下のようなものだ。
ロオマン・ガリの小説『自由の大地』で、堕落したフランス兵達が、空想の少女を崇めることで騎士道精神を取り戻し、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、人間として最低の状態になった中年の男達が、ターニャという16歳の少女を女神のように崇めることで人間性を取り戻した。
これらを重要なこととして示したのは、まさに、ウィルソンの天才的な直観によるものだ。ウィルソンは、その意義を言葉で正しく示すことは出来なかったかもしれないが、考えてみれば、そこまで求めるべきではない。
示唆さえしてもらえれば、後は自分の努力で見出すべきである。
ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」を問うという、悟りへの道を示したが、誰一人うまくいかなかったのは、所詮、努力不足だからだ。
それは、生半可な努力で到達出来ることではない。
ラマナ・マハルシは、起きている間は、ずっとやれと言ったのだ。
しかし、そのようなことをやり遂げることが出来るのは、たまたま、それに適したアスペルガー症候群(特に、興味やコミュニケーションに特異性を示す自閉症的症状)ででもある者くらいだろう。
間違いなく、マハルシはアスペルガー症候群だった。
人間に個性があることは認めざるをえず、従って、努力の方向は多様だ。
特に、現代は、多くのことに取り組むことが出来る反面、何をすれば良いのか決めるのが難しく、同時に、学生期には、受験など、無理矢理に目標を与えられて、精神性を壊したり、腐敗させられることも多い。
だが、被害者ぶっていては、さらに悪くなるだけである。
鍛錬といっても、日常生活や仕事だって、最高の鍛錬になりうる。
その中の何かについて、超人的な努力でもって達人の領域を目指すことは優れた鍛錬だ。
だが、目標とするレベルが低かったり、単にやるというのでは意味がない。
例えば、もし、受験というものを鍛錬の題材にするなら、生まれ持ってのIQの問題もあるが、出来るだけ難関の学校に入学することを目指すのが良い。
ただし、あくまで、自主的にその気になればの話で、親や教師が無理矢理そうさせようとしたら、その子を真の意味で殺すことになる。
さて、話を戻すが、鍛錬するためには、何かを崇めなければならない。
それは、単なる憧れや、ただの好きといったものではない。
青少年期によく見られる、誤った崇拝には問題があるが、鍛錬のためのネネルギーとしては有効である。
だから、まずは、鍛錬が何より重要であると考え、妄想しないように、自主的に厳しく鍛錬すべきである。
いかなる問題も、鍛錬が解決する。
逆に、鍛錬しなければ、問題は増え続ける。
鍛錬のためには、何かを崇めなければならない。
それが鍛錬に耐える力を与えてくれる。
崇めるべき何かは、遠くにある訳ではないのである。
そして、崇めるべきものがあれば、厳しい鍛錬ほど楽しいというのが事実である。
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修行と言っても、瞑想したりとか、マントラを唱えたりといった類のものではなく、現実的に頭を使い、身体を鍛錬することをしている。
もし、人生相談みたいなものを受けたら、解決策は1つである。
それは、鍛えるということだ。
あらゆる問題は、鍛錬の不足から起こる。
ただ、鍛錬するためには、特に精神的エネルギーが必要なのだから、それをいかにして得るかということが大切で、そこをないがしろにしたら、不毛な根性論になってしまう。
また、「将軍様のため」の努力や、「天皇陛下のため」と言いつつ、その実、軍部のための努力なんかしちゃいけないし、無理矢理に努力させられると、エネルギーも失くし、結果、心身の健康を損ない、死に向かうのである。
エネルギーを得て努力するためには、「崇める」態度が必要である。言うまでもなく、心の底から、自主的に、真に崇めることである。
「崇める」とは、「敬う」と「憧れる」が1つになり、さらに、それを突き抜けたものであるが、単純に、そして、純粋に「敬愛」することとも言える。
そのことを分かるために、イギリスの作家コリン・ウィルソンの指摘は重要だ。
それは以下のようなものだ。
ロオマン・ガリの小説『自由の大地』で、堕落したフランス兵達が、空想の少女を崇めることで騎士道精神を取り戻し、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、人間として最低の状態になった中年の男達が、ターニャという16歳の少女を女神のように崇めることで人間性を取り戻した。
これらを重要なこととして示したのは、まさに、ウィルソンの天才的な直観によるものだ。ウィルソンは、その意義を言葉で正しく示すことは出来なかったかもしれないが、考えてみれば、そこまで求めるべきではない。
示唆さえしてもらえれば、後は自分の努力で見出すべきである。
ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」を問うという、悟りへの道を示したが、誰一人うまくいかなかったのは、所詮、努力不足だからだ。
それは、生半可な努力で到達出来ることではない。
ラマナ・マハルシは、起きている間は、ずっとやれと言ったのだ。
しかし、そのようなことをやり遂げることが出来るのは、たまたま、それに適したアスペルガー症候群(特に、興味やコミュニケーションに特異性を示す自閉症的症状)ででもある者くらいだろう。
間違いなく、マハルシはアスペルガー症候群だった。
人間に個性があることは認めざるをえず、従って、努力の方向は多様だ。
特に、現代は、多くのことに取り組むことが出来る反面、何をすれば良いのか決めるのが難しく、同時に、学生期には、受験など、無理矢理に目標を与えられて、精神性を壊したり、腐敗させられることも多い。
だが、被害者ぶっていては、さらに悪くなるだけである。
鍛錬といっても、日常生活や仕事だって、最高の鍛錬になりうる。
その中の何かについて、超人的な努力でもって達人の領域を目指すことは優れた鍛錬だ。
だが、目標とするレベルが低かったり、単にやるというのでは意味がない。
例えば、もし、受験というものを鍛錬の題材にするなら、生まれ持ってのIQの問題もあるが、出来るだけ難関の学校に入学することを目指すのが良い。
ただし、あくまで、自主的にその気になればの話で、親や教師が無理矢理そうさせようとしたら、その子を真の意味で殺すことになる。
さて、話を戻すが、鍛錬するためには、何かを崇めなければならない。
それは、単なる憧れや、ただの好きといったものではない。
青少年期によく見られる、誤った崇拝には問題があるが、鍛錬のためのネネルギーとしては有効である。
だから、まずは、鍛錬が何より重要であると考え、妄想しないように、自主的に厳しく鍛錬すべきである。
いかなる問題も、鍛錬が解決する。
逆に、鍛錬しなければ、問題は増え続ける。
鍛錬のためには、何かを崇めなければならない。
それが鍛錬に耐える力を与えてくれる。
崇めるべき何かは、遠くにある訳ではないのである。
そして、崇めるべきものがあれば、厳しい鍛錬ほど楽しいというのが事実である。
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禁欲できるようになりました。
今は精神病院に入院中ですが、
まだまだ親との対立や問題が次から次に出てきます。
筋トレは舌を歯の回りで動かしたり、
歩くときに腹筋に力を入れて歩いたり、
風呂場で全身に力を入れることをしてましたが、
それも続かないです。
最近の思考は、
自分の収入を自動化するシステムを考えることです。
ネットでは現金化出来ない収入が、
合計2000円くらいあります。
そろそろ退院して、
仕事をしないといけないので、
また違った考えになるかもしれません。
とにかく生きて自己鍛練を怠らないようにします。
Kayさん、ありがとうございました。