ライトノベル(ラノベと略されることが多い)というものを読んだことがない人も多いだろう。
別に、ライトノベルという小説の分類が本当にある訳ではなく、中学生や高校生を「一応の」主要な読者と想定した小説・・・程度の意味である。
日本の歴史的な小説作品になったともいえる、筒井康隆さんの『時をかける少女』は、1965年に中学生・高校生用の雑誌に連載されたものだが、今ならライトノベルの範疇に入るだろうし、最近は、筒井さんは自ら、これはライトノベルであるという作品を出したりもしている。

私が全巻読んだライトノベルの中に、『僕は友達が少ない』(平坂読著)がある。第1巻が出たのが、ほぼ7年前の2009年8月で、最終11巻が出たのが昨年(2015年)の8月だ。
私は、2012年6月に出た8巻までは紙の本で読んでいるが、9巻以降は電子書籍で読んでいる。
登場人物の高校生達は、最初の頃は、普通にフィーチャーフォン(ガラケー)を使っていた。第1巻が出た2009年は、まだスマートフォンの普及率が1%台という時代だった。
そんな中で、物語は、ほとんどが、主人公の羽瀬川小鷹が高校2年生から高校3年生までのお話であるから、いろいろ矛盾が出てくるのも仕方がなく、作者も大変だったろう。
(そのような事情は、『神様のメモ帳』の最終9巻(2014年)のあとがきで、著者の杉井光さんが、細かく書かれていた。)

『僕は友達が少ない』のヒロインの1人である柏崎 星奈(かしわざきせな)は、所属する聖クロニカ学園の理事長の娘で、家は富豪である。
星奈のキャッチフレーズは「性格以外はパーフェクト」だ。
つまり、容姿端麗の絶世の美少女で、金髪碧眼、成績は常にトップ、その上、スポーツ万能だが、性格に大いに問題がある。
(父親が日本人で、母親が西洋人ということだが、本当はそれで金髪碧眼の子供が出来る可能性は、ほぼないらしい)
自分を選ばれし人間と断言し、他者を「愚民」と蔑むが、実際、それだけの容姿と能力があるので誰も文句を言えない。
しかし、当然ながら、他の生徒達に敬遠され、友達は1人もいない。
多くの男子生徒達が、彼女を「星奈様」と呼び、崇拝の対象にはするが、あくまで、女王様と家来の関係だ。
まして、女子生徒達には、ほぼ圧倒的に嫌われている。
そんな星奈も、修学旅行のグループ分けなどの時には、一緒になってくれる女子がいないなどの切実な悩みはあり、友達(特に女子の)が欲しいとは思っているが、だからといって謙虚さを見せて譲歩することは全くない。
主人公の羽瀬川小鷹も、星奈の性格の悪さには、ほとほと呆れることも多い。

だが、考えてみれば、星奈が悪いとは全く言えない。
これほど優秀な子が、他の生徒達を疎ましく思ったとしても、それは仕方がないことだ。
彼女のIQ(知能指数)は、推測すれば160以上だろう。
そんな人が、普通どころか、少々優秀な人であっても、彼らをはっきり自分よりはるかに劣ると認識し、また、話が合わないのは当たり前のことだ。
それでいながら、さしもの星奈も、数には敵わないということもあり、窮屈だったり、時には理不尽な想いもするのだから、自分の美点を振りかざして、自分の価値を示したがるのは、この年では無理もないと言える。

メインのヒロインである、三日月夜空のキャッチフレーズは「容姿以外はいろいろ残念」だったと思う。
彼女は、星奈ほどではないが、やはり素晴らしい美少女で、勉強も運動も優秀だ。
もっとも、夜空自身は、自分が星奈に劣るとは全く思っておらず、星奈に堂々対抗し、星奈に対し、「馬鹿」「頭が悪い」と言い、実際、狡知に長けた夜空は、星奈を見事にやり込めることが多い。
そんな夜空と星奈は、優秀な美少女同士、仲良くすれば良さそうなものだが、実際は、最悪の仲であった。
そして、夜空も、他の生徒達と全く馴染まず、クラスで孤立しているが、中学時代から、遠足に行った先の遊園地で、終日、レストランで1人で本を読んでいたなど、悲惨な思い出が多く、友達が欲しいと密かに思っている。
夜空のIQは推定135以上。
全く努力をしなくても楽々トップの成績が取れる星奈とは違い、多少の努力の成果としてトップクラスの成績を続けているのだと思うが、やはり、そんな夜空も、普通の子達と話が合うはずがなく、無理に仲良くしても苦痛なはずだ。

まあ、美少女だからというのも大いにあるだろうが、読者は、いかに性格が悪いことを示す行状を見ても、夜空や星奈を嫌いにはなるまい。
また、まるで仇同士のような、夜空と星奈の争いを、微笑ましく見る向きも多いと思う。
そして、本当は、この2人は、むしろ被害者で、実際は少しも・・・と言えなくても、「あまり」悪くない。
IQが高い人間の生き難さ、悩みがよく現れているが、今の世の中では、そんな道理は、言ってはならないタブーとして隠されている。
しかし、「優秀なものは仕方がない」ということを認めてしまえば、良いこともあるだろう。
別に、我々凡人が優秀な人達に平伏(ひれふ)すというのではなく、違いを事実として認めることは、やはり大切である。
でないと、1つには、可能性があるに関わらず、我々が、優秀な者を目指すこともしないだろう。
また、偏差値の高い中学に入れるような子は、実際、IQが高いのは事実だが、そんな子達も、大半が二十歳までに凡人になり、それ以降では、凡人にすら劣るようになる場合も少なくないのは、やはり、優秀さの認識に問題があるからだ。
世の中にある常識的な方法では、凡人が高いIQを持てるようになることは、これはもう全くない。
だが、現在の人間の潜在能力の大半は、一生使われないままなのであるが、それは、やり方によっては明らかに使用可能なのである。しかし、そのやり方は、今の世の中では、とても非常識と思えるものなのである。









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