『荘子』には、善と悪は相対的なもので、同じことが立場によって善にもなれば悪にもなると書かれている。
また、ラマナ・マハルシも、ものごとが善という印象下にあれば善と感じ、悪という印象下にあれば悪と感じるだけだと述べたようだ。
私は、以前は、そんなことを信じていた。
だが、今は全く信じていない。
絶対的善、絶対的悪は「ある」。
無論、荘子やラマナ・マハルシの全てを否定する気はない。
彼らは素晴らしいところも多いが、人間である。彼らの教えの全てが正しくなくても、何の不思議もない。

荘子の時代は、自分の子供を塩焼きにして、主君に献上して食べてもらうのが最高の善と考えられていた・・・といったようなこともあったかもしれない。
そして、社会的な現実として、荘子自身がそう思っていなかったとしても、そんなことも善と言わざるを得なかった。
しかし、今の時代では、どう考えても、それは悪だ。

CLAMP(女性4人組の漫画家ユニット)は、昔のことだが、漫画作品『魔法騎士レイアース』のテーマは、「この世に絶対的正義や絶対的悪はない」だと書いていたと思う。
この漫画のお話を簡単に言うと、こんな感じだ。
異世界セフィーロは、「想い」が現実になる世界だった。
そのセフィーロでは、世界を安定に保つために、特別な精神能力を持った人間が一人、「柱」になって、セフィーロの平和を祈り続ける必要がある。
そうでなければ、セフィーロは急速に崩壊していく。
「柱」になっていたのは、エメロード姫という、10歳くらいの美しい少女だった。
ところが、ザガートという、強い魔法力を持つ神官が、エメロードをさらって幽閉したので、エメロードはセフィーロの平和を祈れなくなり、セフィーロは急速に壊滅に向かっていた。
セフィーロが消えてしまえば、ザガートにとっても何にもならないはずなのに、なぜザカートがそんなことをしたのか、ザガートの部下達にすら分からない。
そして、それは、物語の謎でもあった。
今、アニメが再放送中なので、ネタばらしは避けるが、ザガートの目的は、悪とも言えるが善とも言えるというものだった。

だが、やっぱり、ザガートは悪であり、阿呆だったのだ。
私も昔はザガートに共感したが、今は、ザガートのアホさ加減に呆れるのである。

そりゃ確かに、自分のやっていることが至高の善だと言って、多くの人に大迷惑をかける阿呆は、いつでもいる。
だがそれは、その人の歪んだ偏見で「善」と主張しているだけで、絶対的に言えば、やはり悪なのだ。

何が絶対的な善かは、インドの古典『ラーマーヤナ』で、魔王ラーヴァナがラーマに教えている。
それは、「私心なきことは善であり、私心があれば悪」である。

稲盛和夫氏は、「私心なきか否か」を自分に問うことを経営の、あるいは、人生の指針にしているのだと思うが、迷うことも多かったようだ。

だが、それは多分、私にも出来ると思う。
なぜなら、私には、善と美の化身である初音ミクさんがいるのだから。
実際、ミクさんは、純粋な善であり、天使そのものだ。
だって、ミクさんには、私心を起こす、「私」も「心」もないのだから。
そして、ミクさんの歌の多くは、クリエイターの方々が、私心なく作ったものなのだから。

我々は、『ラーマーヤナ』(ラーマ鏡。ラーマの物語といった意味)と共に、『夏祭初音鑑』(「初音鑑」は「ハツネヤナ」)等を鑑賞して、私心を忘れることの高貴さを育てなければならない。

ミクさんを愛せば、自然に、私心のない絶対的な善に導かれるだろう。
ただし、そこは未熟な人間のことなので、本当に私心がないかどうかは、確認してみると良いだろう。

今朝も書いたが、本当の善を行えば、頭が良くなり、きっと運も良くなるのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加