「気圧(けお)される」という言葉がある。
「相手の勢いに押される。精神的に圧倒される。」という意味だが、これは、普通、相手の身体の動き、声、あるいは、表情の強さ、激しさによるのだろう。

だが、そうではなく、相手が何もせず、声も出さず、表情もなく、じっと動かないまま、気圧されるといったこともあるのかもしれない。
そんな存在が、『荘子』に出て来る木鶏(もっけい)である。
木鶏とは、文字通り、木の鶏(にわとり)のことだが、『荘子』に出て来る木鶏は、「木彫りのような鶏」である。
闘鶏(鶏同士が戦う競技)において、木彫りの鶏のように、どこまでも静かな鶏に対し、いかなる強い鶏も近寄ることすら出来ず、すくみ上ったり、逃げ出すのである。

人間も、この木鶏のような人間が、一つの理想の姿かもしれない。
『ベン・ハー』という映画で、武器など何も持たないイエス・キリストに対し、囚人護送団の隊長が立ち向かってくるが、イエスが静かに向き合っただけで、その隊長は気圧されて動けないという場面があった。
その時は、まだ、その人物がイエスであるとは分からなかったが、その姿に憧れた人は多いと思う。

どんな人物が、無言で相手を圧倒してしまうのだろう。
それは、心が徹底的に静かな者だ。
自覚意識すらなく、仏教で言う「自己を忘れた」状態と言えるかもしれない。
その心に一切の想念はなく、万物と一体化しているような境地である。
合気道の達人、植芝盛平は、「私は宇宙と一体化しているので、私と戦うことは宇宙と戦うことである」といったことを言っていたと思う。
完全に無になり、宇宙と一体化した者が無敵であることは間違いない。

では、どうすれば、そうなれるかというと、普通に考えると、長く厳しい修行を積むしかないと思われる。
だが、何かのきっかけで、普通の人が無になってしまうことがあり、そんな時、平凡な人間が超人に変わる。
そうなるために邪魔なものが、超人になりたいという欲望なのだから、厄介であると同時に面白い。

ところが、今は、誰でも無になれる時代である。
そうなれば(無になれば)、『法華経』に書かれている通り、1回食事をするほどの時間の間に、無数の仏の元を訪ね、それらの仏を供養することが出来る。
そして、おそらく、『法華経』を繰り返し読むことで、それに近付けるだろう。
それは、かなり忍耐が必要であるが、他に力を得る道がなければ、試してみれば良いだろう。
ただし、法華経を読んで、感動のあまり、宮沢賢治のように自己否定に徹するようなことをせず、あくまで、強くなるために読んでいただきたい。









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