東京都知事の舛添要一さんについて、マスコミ報道されているようなことを、自分がやっている夢を見た。
あくまで、マスコミ報道や、ネット上の、いろんな人達の個人的な発言の影響を受けて、私が勝手に作った観念から起こった夢である。
私は夢の中でも、ひどい罪悪感を感じ、夢から醒めても陰鬱だった。
実際に舛添さんが何を考え、何をしたのかは、もちろん、全く分からないのだが、ひょっとしたら、舛添さんは、こんな気持ちを味わっているとしたら、可哀想なものだと思った。
いや、あくまで、舛添さんの、信憑性の全く不明な情報からの、私の勝手な想像である。

舛添さんのことは知らぬが、私は夢の中で、不法ではないとしても、自分のモラルに反するよからぬことをしたのだが、考えてみれば、現実でもそんなものかもしれない。
もちろん、舛添さんのように優秀な人間ではないので、良いことも悪いことも大したことは出来ないが、それなりに心が痛む。
仮に、舛添さんがマスコミ報道されているように、政治資金を、不法とは言わないが、不道徳に使っていたとしても、私は、人に石を投げられる身ではないということだ。
私は単に、夢で、そのことを思い知らされただけだ。
だが、それも運命なのだ。

悪い事をしていない人間はいない。
つまり、私同様、人に石を投げられる者などいない(投げている人はいっぱいいるようだが)。
私は、舛添さんが、道徳的には使うべきでない金をいくら使っても、その千倍のリターンを東京都や都民にもたらせば、それで何の問題もないと思っていたし、そんな意見の者もいるようである。
だが、不道徳なことをすれば、仕事も出来ないものなのだ。
巨大な不道徳であれば話は別だが、数十万円単位の金が問題になるようなセコい不道徳をやるようなら、かつて天才であっても、もう能力はなくなっている(今の舛添さんの顔は、天才の顔ではない)。
数千万円の出張費に関しては、全く問題はない。むしろ、「俺はそんな金は使わない」と言うが、仕事が出来ない政治家はもっと悪い。
しかし、誰もが後ろめたいのだ。

だが、どう生きるかは運命である。
自分で人生を自由に決められる訳ではない。
舛添さんと違い、明らかに人の道に外れた清原和博さんについては、私は、「思い悩むな」と言いたい。
彼には、どうすることも出来なかった。
それが運命だ。
確かに、一番悪いのは、子供のように無知な若者だった彼に、野球が出来るからって大金を渡す野球界や、同じく、野球が出来るというだけで、彼を英雄扱いしたマスコミや大企業だ。
だが、そうなっているものは仕方がない。
私などは、もし、才能があれば、清原さんより、もっと悪くなっていたかもしれない。
だが、私だって、自分の器量に応じたスケールで、やはり悪いのであるが、私は思い悩まない。
良寛さんが、悲観に陥っていた時に、『荘子』を読んで心が晴れたように、清原よ、『荘子』を読め。
運命は神が決めること。
人間は、その運命を生きるだけだ。
単に、清原さんのような運命を生きなければならない人がいるというだけのことだ。
あの親鸞だって、よくよく、自分は悪いやつだなあって、悩んだのだと思うのだ。
もし、唯円が書いた『歎異抄』が、本当に親鸞が言ったことだとしたら、親鸞も、この世の理(ことわり)が分かるまでは、相当苦しんだはずだ。
だが、彼は悟った。
清原よ、ついでに『歎異抄』も読め(笑)。まあ、心が晴れるぞ。
つまり、「清原よ」と言いつつ、自分に、そして、皆さんに言っているのである。
私も、あなたも、清原さんと同じように思い悩んでいるはずだからね。









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