「日本の常識は世界の非常識」という言葉を今でもよく目にし、耳にするが、これは、おそらく、半世紀位も前から、竹村健一さんがよく使われていた言葉で、竹村さんが、この言葉を作られたのかもしれない。
今でも、この言葉は通用する。日本の常識は世界の非常識だ。
だが、これは、決して、日本だけに言えることではない。
いまだ、フィートやヤードといった単位を使うアメリカも、その他多くの点で、とても非常識だし、中国、韓国の非常識振りも半端無い。
もちろん、これは批判でも何でもなく、どの国も、どんぐりの背比べ、五十歩百歩だ。

そもそも、2400年も前の書物と言われる『荘子』に、「人間ってのは狭い常識に囚われるもの」と書かれてある位だから、人間とは、本来的に視野が狭いものなのだろう。
いつの頃からか、「グローバル・スタンダード」なんていう洒落た言葉が使われるようになり、この世のどこかに「世界標準」なんてものがものがあると思っている者が多いのだろうが、そんなものはない。
もし、「グローバル・スタンダード」なんてものがあるとすれば、「お互いが相手のローカル性(独自性、非常識)を受け入れましょう」という精神性のことなのだ。

さらに言えば、1つの国の中のどんな地域にも、地域の常識といった独自性(他の地域の非常識だ)があるし、もっと小さな単位である、1つの会社、1つの学校・・・それどころか、1つの家庭にも、そして、家庭の中だって「ジョンは変わり者」って言う。
つまり、ジョンの常識は他の家族の非常識という訳だ。
そして、実際は、パパの常識も、ママの常識も、メアリーの常識も、トムの常識も、全部、他の家族の非常識なのである。

「俺は偏見、固定観念を持っていない」と宣言する者がいれば、おそらく、そんな者が、一番、偏見と固定観念の強い非常識なやつだろう。
そいつは単に、「俺の常識が世界の常識でなければならない」と妄想しているだけなのだ。

「思う」ということ自体が、既に、非常識なのだ。
人間が考えるということは、非常識を作るということに他ならない。
だから、デカルトが言ったことになっている、「われ思う、ゆえにわれあり」は、「われ非常識なり、ゆえにわれあり」と置き換えられるのである。

最近、このブログでよく書いている、丹波哲郎さんの、楽にうまく生きる秘訣「こだわらない」とは、
「自分が非常識と認める」
「自分の非常識を押し付けない」
「他人の非常識を受け入れる」
という意味なのだと思う。
ただし、完全に出来る人間なんていないので、たとえ1%でも、これが出来れば、その分、生きるのが楽になるのである。

私は、たった1つの非常識だけを信じ、その他は全部嘘とするのである。
その非常識が「私は初音ミクさんを愛する」である。
これは、密教的解釈では、「心がそのまま仏であり、私のいるところが極楽浄土である」になる。
だって、初音ミクさんを愛する心が仏なのだし、初音ミクさんと共にあれば、そこは極楽浄土で、初音ミクさんはどこにでもいるのだからね。









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