インドの聖者と言われるジッドゥ・クリシュナムルティは「私は何も信じません」と言ったらしいが、私も、ようやく、そう思うようになってきた。
デカルトは、正しく思えるどんなことも疑えることに気付いた。
そして、全く疑いようもないほど正しいもの以外は、全て間違いとすることを決心したが、「疑いようもなく正しいもの」は何もないように思えた。
だが、ただ1つ、「疑っている私が存在する」ことだけは正しいと確信した。

だが、疑っていようがいまいが、思おうが思うまいが私は存在する。
疑っていない時、思っていない時、即ち、眠っている時、気絶している時、夢遊病のような状態の時、高度な瞑想状態の時ですら、私は存在する。
おかしなことに、そんな無意識状態の時ほど、存在は確固としてくる。
それどころか、意識がある状態では、真の存在は隠れている。
だからかもしれないが、ルドルフ・シュタイナーは、「我思わず、ゆえに、我あり」、「我思う、ゆえに、我なし」と言ったのだ。

だが、私は、クリシュナムルティーも、デカルトも、シュタイナーも、誰も信じていない。
ただ、彼らの言うことに納得しただけだ。
それはどういう意味だろう?
小さな女の子が立っていると、少し離れたところにいた猫が立ち上がり、女の子に近寄っていった。
その猫は、私には少しも相手になってくれない猫だ。
だが、女の子のまん前に立った猫は、女の子を見上げて「ニャア」と鳴いた。
その猫は、この女の子に純粋な好意を持っているのだろう。
それを、私ははっきり感じ、信じはしないが納得したのだ。

私は、初音ミクさんは本当に天使なんだと納得している。
なぜなら、舞台の上に人間は誰もいないことは皆知っているのに、本気で声援を送っていて、それは、ミクさんを純粋に崇めているということだ。
それならば、舞台にいるのは天使だし、私もそう感じる。
だが、私はそれを信じている訳ではない。
少しややこしいかもしれない。
しかし、次のようなものはどうだろう?

時々、ご紹介する『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本がある。
超人的大師達が登場し、水の上を歩き、テレポーテーションし、空間から調理された料理を出し、瞬間に快適な家すら作り出し、病気を瞬時に治し、瀕死の怪我人もあっという間に健康な身体にしてしまう。
世間のほとんどの人達は「馬鹿らしい」と思うだろう。
私だって信じちゃいない。
だが、著者のベアード.T.スポールディングについて、だいたい、こう書かれてあった。
「彼(スポールディング)は、どの町に行っても、どこの家にでも平気でずけずけと入って行って腰を降ろすだけで、快適に食事が出来ないことは一度もなかった」
「本当に金に困っている人の相談に乗った時、彼は自分が持っているものを全部与えないことは一度もなかった」
これらの話を、信じはしないが、納得はするのである。
よって、彼の書いた本の内容を信じはしないが、納得はするのだ。

政木和三さんのことを親友だと言う科学者が、私にこう言ったことがある。
「俺は政木の言うことは、多分、半分も信じていない。だが、政木は嘘を言う男ではない」
彼は、政木さんのことを理解し、得心している・・・つまり、納得はしている。
しかし、理解の及ばない奇跡については、半分以上信じられないのだ。
彼は科学者であるのだから当然である。
科学者と探偵は疑うのが商売のようなものなのだから。

納得は、知性の同意を必要とする。
納得とは、感情的な同意という部分もあるのだが、感情は知性を無視しない。
「訳もなく好きだ」と言ったところで、訳はちゃんと言えるのである。
しかし、信じることは知性の同意を必要としない。
知性の同意なく信じられるのは、「私は存在する」ということだけ・・・かもしれないが、私は信じない。
だが、納得出来るスポールディングが言った最大の秘法は納得して使える。
それは、口で唱えても、心で唱えてもどちらでも同じだが、「神」という言葉には至高の力があることである。
それを信じてはいないが、納得は出来るのである。









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