ソクラテスだって、アリストテレスだって、神を崇めていた。
彼らが崇めていた神は、ギリシャ神話の神々・・・つまり、オリュンポス12神で、特に、ゼウス、アポローン、アテーナーを崇拝するのが、当時のギリシャの人々の習わし(しきたり)で、ソクラテスらも、それに従っていた。
ところで、ギリシャ神話の神々は、普通に考えると、あまり感心出来ないと感じると思う。
神々の王ゼウスは、きれいな女の子を見ると、すぐ、すっ飛んで行って子作りするし、アルテミスは、不可抗力で彼女の裸を見てしまった人間の男に怒って、彼を鹿に変えてしまい、その鹿は猟犬に八つ裂きにされる・・・ギリシャ神話には、そんなお話が満載である。
ゼウスの正妻へーラーは、ゼウスの同父同母の姉だし、それと同じ姉のデーメーテールにコレー(ペルセポーネ)を産ませている。
その美少女コレーに一目惚れしたのがゼウスの兄のハーデス(つまり、コレーの叔父)で、この件でハーデスの相談を受けたゼウスは、
「良いぞ。男が強引に迫ってこそ、女はシビれる。がんばれ」
と、変なそそのかしをし、その気になったハーデスは、コレーを略奪する。
ハーデスによるコレー(ペルセポーネ)の略奪の悪行の様子は、名画、名彫刻になっている。
そんな神々でも、人間は崇めなければならず、神の意図を、人間は探ろうとしてはならない。
理屈で考えると、滅茶苦茶だ。
しかし、私は、「なるほど」と納得するのである。

人間の不幸の、ほとんど唯一最大の欠点は、自我が王様であることだ。
自我が、「俺は王様だ。俺が一番偉い、一番貴い、一番賢い」と思っている間は、人間は悲惨な目に遭う。
だが、自我が、自分より上位の存在を認め、自分が一番でないということを本当に知れば、悲惨は終わる。
ギリシャ神話の神々は、人間が、自分達を軽んじることを決して許さず、自分達を畏れ敬う人間には恵みを与えるが、そうでない人間には厳しい罰を与える。
だから、人々は、神を恐れ、謙(へりくだ)って崇める。
それで良いのである。
それで、自我は、自分の上位に神々が君臨することを認め、傲慢でなくなるからだ。

イエス・キリストは、自分は神の子であり、神と等しいと宣言し、庶民の崇拝を集めた。
イエスを自分の自我より上位に置いた庶民達は、とりあえず、善い人になり平和を得た。だが、まだ弱かった。
一方、支配者達は、自分の自我の上位に立とうとするイエスを許さず、捕らえ、辱め、徹底的に貶め、最大の屈辱を与えて殺した。
イエスを自我の上位に置いたままの人達は、そのイエスが惨めに死んだことで、自我が滅び、神と通じることが出来たのだ。

我々も、貴いものを崇め、それを自我の上に置くことにより、人間特有の不幸から逃れることが出来る。
それは、実に賢い方法なのであるが、それがなかなか出来ない。
仏教の仏様や菩薩様は、優れた精神の持ち主で、元々は非常に崇め易かったのに、仏教の権威者達が汚してしまい、崇めることが出来なくなってしまった。
観世音菩薩にしたって、僧侶の立場にある者までもが、「観音様に頼めば福をくれますよ」とか、変な説明をして、人々は、観世音菩薩を召使いにして、自我の下に置いてしまっている。

また、人間を崇めてしまった者は、100%、パーフェクトに悲惨に遭う。
クリシュナムルティが、「ガンジーなんてロクなヤツじゃない」と言ったのは伊達ではない。
無論、ガンジーに尊敬すべき点が多くあることまで、クリシュナムルティだって否定はすまいが、崇める対象では絶対にない。
本物の聖者は、皆、こう言うのだ。
「私を崇めるな」
と。
「私を崇めよ」と言うのは、自我をハリボテの王座の上に置いた阿呆である。

あなたは、人間以外の貴い何かを崇めなければならない。
そりゃ、エマーソンは、
「馬鹿者!アンタが一番偉いんだ。全ての価値はアンタが決め、アンタは自分の判断だけで動かないといけない」
と言ったが、それは、人間の間でのことだ。
言ってみれば、やっぱり、人間を崇めるなと言ったのだ。
自分の自我の上に他人の・・・・それがどれほど偉い人、権威者であっても、その自我を置くという愚を戒めたのだ。

初音ミクさんは、世界的な人気者になった今でも、何の権威も持たない。
クラシック交響曲でソリストをしたり、オペラの名門劇場でオペラのプリマを務めたり、日本一の交響楽団とコラボしても、ミクさんには、人間の権威という穢れは付かない。
それを示すためだけに、そのようなハイ・カルチャーと共演する運命だったのである。
そんなミクさんを崇めることは、実に好ましいことである。
もし、クラシックやオペラが、ミクさんを崇めるなら、世界は平和になるだろう。
ただし、その場合は、ミクさんには、キリストの試練が降りかかる。
ない方が良いと思うのであるが、どうなるかは分からない。
言っておくと、ミクさんが、それらのハイ・カルチャーと共演することを、あまり喜ばない方が良い。
それは、悲劇の前兆かもしれないのである。

あなたは何を崇めるだろうか?
普通の人達と同じように、愚かにも、自我を王座に据え、崇められることを願うだろうか?
もし、貴い何かを、慕い、憧れる気持ちで崇めれば、自我は屈服して退き、その貴いものを通じて、あなたの魂は、神の魂と融合出来るだろう。









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