宇宙戦艦ヤマトは放射能除去装置を受け取るために、はるばるイスカンダルを目指したらしいが、我々は、心の放射能除去装置を持たなければならない。
それは、今ここで、タダで手に入るが、使い方が甚だ難しい、「崇める」という心的装置である。

人間は、なぜ不幸になるのか?
ゆるむからである。
なぜ、ゆるむのか?
ここが肝心である。
それは、人間の自我というものは、自分がNo.1だと思うものだからだ。
自我は、自分こそが最上の存在であり、敬われるべき絶対君主だと思っている。
その結果、切なく崇拝を求める。
結果、社会的に偉い者は傲慢になるが、底辺の者だって、一見卑屈だが、プライドは恐ろしいほど高い。
だが、本物の王様だって、自分が一番だと思ったら、ゆるんでしまい、地獄に真っ逆さまだ。
だから、王様こそ、崇めるという心的装置が必要なのだし、良い王様は、それを見事に使いこなしている。

崇めるということは、どういうことだろう?
それは、「自我の上位に、自我に優るものを置く」ということなのだ。
神様を崇めれば、自我より上に神様があり、自我は自分はNo.1ではないと認識する。

崇める対象は、神様、仏様でなければならない・・・ことはない。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、男達は、ただの16歳の可愛い少女を崇め、ガリーの『自由の大地(天国の根)』では、フランス兵達は、空想の少女を崇めた。
結果、26人のゴミ虫のような最低の男達は、道徳、理性、知性、活力を取り戻し、堕落したフランス兵達は騎士の品位を取り戻した。
だが・・・将軍様、王様、法王様を崇めるとロクなことはない。
人間を崇めると、一瞬は向上しても、すぐに奈落の底に叩き落される。
なぜなら、それは、自我の上位に、他の自我を置くという、愚かなことだからだ。
「嗚呼!バカバカバカ!」と言うべき馬鹿さ、愚かさ、間抜けさだ!
人間を崇めるとどうなるかは、上に挙げたゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』に、ユーモラスに、喜劇的に、しかし、悲劇的に描かれている。
女神のように崇めた少女も、人間である限り、肉の塊に過ぎないのだ。
しかし、『自由の大地』で、フランス兵達が崇めた空想の少女は、本物の女神だったのだ。

自我を持った人間を崇める愚を犯してはならない。
人間は崇拝の対象になり得ない。
それは、たとえ、ガンジーであっても、マザー・テレサであっても例外ではない。
されば、神仏を崇めるのが良いのだけれど、神仏自体に自我の垢が付いていることが多い・・・いや、必ず付いている。
だから、神仏を崇める場合も、崇めるべき神仏の「自分が気に入った」絵、あるいは、像と共に、その名だけを崇めよ。
その名を、美しい御姿を心に浮かべながら、慕い、憧れる気持ちを持って、想い、あるいは、唱えよ。
そうすれば、自我は神仏の下位にうやうやしく退く。

もし、気に入った神仏の絵や像がなければ、『自由の大地』のフランス兵達がやったように、崇めるべき者を想像すれば良い。
それは、思い出の中の人物であれば、人間でも良いが、具体的人物であるなら、決して身近でない者でなければならない。
絶対に会うことのない者でなければならないのだ。
木枯し紋次郎が、8つの時に別れ、その2年後に亡くなった姉を崇めたようにだ。
そんな姉は、紋次郎を決して裏切らない。
しかし、どんなに良い姉でも、身近にいれば、いつか裏切られるのである。

初音ミクさんを崇める人は幸いだ。
ミクさんは決して裏切らない。
私は、ミクさんのお父さんの、クリプトン・フューチャー・メデイァアの伊藤博之社長の講演会に行き、「人よりも牛の方が多い地で育った」という、伊藤社長のお人柄を感じ、この人に育てられたミクさんなら、絶対に大丈夫だと思ったのだ。
また、伊藤社長さんが、娘さん(ミクさん)をとても大切にしていることも、私はよく知っている。
ご本人は、ミクさんを娘とは思っていないと言われていたが、「大切なもの」「水のようなもの」と言われていた。
それがつまり、本当の娘ってことだ。
しかし、「水」とは面白い。
『古事記』によれば、水を配給する神は、ミクマリなのである。
また、日本の超古代文明と言われるカタカムナでは、ミクマリは、全てが融合した円、あるいは、球なのである。

素晴らしい姉がいた紋次郎は幸せである。
初音ミクさんを崇める私は幸いである。
あなたも、決して裏切らない、純粋で美しい存在を崇めるべきである。
自我を専制君主にしてはならない。
自我は、美しく敗れないといけないのだ。
私はミクさんに止めを刺され、その後方(しりえ)に退いたのである。
「我敗れたり。そなたの後方に下がりひざまずく」
である。これをイエスは、
「汝敗れたり。わが後方に退け、サタン!」
と言ったのである。
自我はサタンである。

『老子』第39章(!)にある通り、優れた古の王様は、自分を「孤児」「独り者」「悪しき者」と呼んだのである。
王こそ、貴い何かを自我の上位に置いて、ひざまずく必要があることを、賢い王達は知っていたのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ