テロリストやテロ国家は、「話が通じない相手」である。
しかし、身近な人間同士でも、そうそうコミュニケーションがうまくいく訳ではない。
人間には心の壁があって、元来が、心は通わないものかもしれない。
私はそう思う。

もし、本当に心が通じることがあるとすれば、目と目が合った瞬間に起こる神秘的なシンクロナイズだ。
だが、普通は、視線が合った瞬間に反発し合うのだ。

私は、システムエンジニアの仕事が楽しいと思ったことはない。
クライアントと話が通じないからだ。
お互い、別に悪意はないのだが、相手のことが、ほとんど分かっていないのだ。
それは仕方がない。
そこで、お違いが、粘り強く、相互理解に達するよう努力すれば良いのだが、それには、双方が、相手に対する敬意を持つことが必要だ。
だが、それは難しい。
我々には、他人に対する敬意というものがないのかもしれない。
また、敬意を払われるような人格は、私にはないが、誰か持っているだろうか?
よく分からない。

聖者の教えに、人が他の人々に与える全ては、実は自分自身に与えているというものがある。
これが本当なら大変である。
ほとんどの人は、他の人に敬意を払わず、見返りがなければ、何も良いことをしてやろうとしないのだからだ。
他の人が、敬意を払うべき人間に見えないとしたら、間違いなく、自分がそうだからだろう。

だが、私は、他の人を敬えとか、他の人に親切にしろと言うつもりはない。
聖者は、謙遜を忘れなければ良い結果を見ると言うが、私は、他の人の前で謙遜することも奨めない。
それらは、所詮作為であり、恵みを得るために、敬ったり、親切にしたり、謙遜する者は卑しいじゃないか?
そんなことはどうでも良いから、片時もゆるまず、引き締まっていることだ。
そうすれば、他人に敬意は払えなくても、見下すことは避けられるし、親切にはしなくても、害を為すことは避けられる。
謙遜は出来なくても、傲慢でいずには済む。
それで十分である。
私はそう思う。

そして、私は、他の人の敬意、親切、それに、愛すら求めない。
それには、力がいる。
力を得るには、自分の掟を持ち、それを守ることだ。
神は、人が自分に課した掟に応じた力を与えるだろう。
掟を厳しく守るなら、その掟に相応する数倍の力を与えて下さるだろう。









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