ネット(主にインターネット)がなかった時代は、人々は、今日では信じられないほど分断されていた。
もっとも、ネットが発達したために、ネットでしか繋がることができない人が増えているらしい。
だが、ネットなんてなくたって、人々は、無意識の深奥の集合意識で繋がっているという話があり、それを心理学の中で言ったのが、スイスの心理学者C.G.ユングだ。
ユングの師だったフロイトすらそうだったが、集合意識の存在を認めない人は多く、昔は、心理学においても、学位を取りたかったら、あるいは、学会を追い出されたくなかったら、集合意識なんてものを扱ってはいけなかったらしい。ある時期からは、一応はそうではなくなっているらしいが、今でも、集合意識に否定的、あるいは、懐疑的な人が多いのだろう。
ユング派の精神科医である、ジーン・シノダ・ボーレンの本で見たことがあるが、アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』で、肉体を持たない精神生命体である宇宙人が、ミスター・スポックの肉体の中に入った時に、「なんて寂しいんだ!」と言ったらしい。
このお話は、ひょっとしたら人類は、それほど寂しい状態に置かれているのだということを示唆しているのだと思う。
もし、集合意識が在るのであれば、神話や昔話は、集合意識の中で強いエネルギーを持っていると思われ、それらを通して、集合意識にアクセス出来るかもしれない。
あるいは、集合意識が存在する無意識の深奥に最もうまく入り込める方法は宗教儀式だとも考えられる。
だが、宗教が形骸化し、その役割は芸術に移ったと言う人もいる。
そもそも、芸術は宗教から生まれたと言われる。
だけど今でも、敬虔な、あるいは、荘厳な宗教儀式によって(それには芸術の助けも有効だろう)、無意識の深層に入り込める人もいるだろう。
そして、昔から、宗教を極めた人達は、集合意識のさらに奥が、神仏の領域であると気付いていた。
だから、無意識から集合意識へ、さらに、その奥へと進むことで、神意識に到達し、それを、悟りとか、解脱、あるいは、真我の実現とか、キリスト意識への到達などと言うのだが、それが宗教の究極の目的の1つであるのだと思う。
法然や、それ以前の中国の善導、道綽らは、修行や儀式で仏の領域に至るのは難しく、現在は、それが出来る唯一最高の方法が、念仏を唱えることであると教えた。
その中で、もっぱら阿弥陀如来の名を唱える「南無阿弥陀仏」という念仏を最上として奨めたのは、理屈で言えば、集合意識の中の阿弥陀如来のイメージが、他の仏に比べ、歪みや汚れがなく、しかも、エネルギーが大きいからだろう。
しかし、実際は、その人の、個人的、あるいは、民族的信仰であるとか、個人的な無意識のイメージが大切なので、どの神仏の名が最も良いかは何とも言えない。
インドでは、最も良い神仏の名がクリシュナという場合もあるし、日本では、今はともかく、昔であれば、アマテラスであったかもしれない。
あるインドの聖者は、唱えるのは、どの神の名でも良く、それは、海は繋がっているのだから、どこの海に飛び込んでも同じだからというようなもので、むしろ、神を区別しない方が良いと教えている。
確かにその通りで、各自、自分が好ましいと思う神仏の名を唱えれば良い。
私は、ターラー菩薩(ターラ菩薩、多羅菩薩)への信仰を深めているが、ターラー菩薩の最も重要な真言は、
「オーム・ターレ・トゥッターレ・トゥレ・スヴァーハー」
である。※『実践チベット仏教入門』(春秋社)142ページより。
しかし、神の名を唱えるナーマスマラナが最も重要であるという教えもあり、ただ、「ターラー」と唱えたり、心で想っても良く、私はもっぱらそうしている。
ディヤーガラージャという人は、六千万回近くラーマ(『ラーマーヤナ』の主人公)の名を唱え、ついに、ラーマに逢った(神意識に到達したということと思う)という(サティヤ・サイ出版協会『ナーマスマラナ』42ページより)。
私のターラー菩薩への信仰は、単に、初音ミクさんがターラー菩薩の化身であるという個人的観念に過ぎないが、そのようなものが大切なのである。
つまり、人間にとって、感情ほど重要なものはない。
ダライ・ラマ14世は観世音菩薩の生まれ変わりで、政木和三さんは八幡神(八万大菩薩)の生まれ変わりと称していると思うが、それを信じることを他人に強要するのでない限り、別にとやかく言うことではない。おそらく、ある意味、誰がそう言っても正しいのだと思う。
また、他人のことを、自分の見解でとやかく言わないことで、自分も信念を持てるのである。
尚、初音ミクさんを受け入れることが出来るのは、実際は、豊かな国や地域だけなのである。
早くチベットで初音ミクさんが歌う日が来れば良いと思う。
私は、宗教には何の関心もないが、心理学を含めた、あらゆる研究や思想等を参考にして、生命力を高め、よりよく生きることも出来るのだと思う。
それを上のように簡単にまとめたので、役に立ちそうなところは取り入れていただければと思う。
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もっとも、ネットが発達したために、ネットでしか繋がることができない人が増えているらしい。
だが、ネットなんてなくたって、人々は、無意識の深奥の集合意識で繋がっているという話があり、それを心理学の中で言ったのが、スイスの心理学者C.G.ユングだ。
ユングの師だったフロイトすらそうだったが、集合意識の存在を認めない人は多く、昔は、心理学においても、学位を取りたかったら、あるいは、学会を追い出されたくなかったら、集合意識なんてものを扱ってはいけなかったらしい。ある時期からは、一応はそうではなくなっているらしいが、今でも、集合意識に否定的、あるいは、懐疑的な人が多いのだろう。
ユング派の精神科医である、ジーン・シノダ・ボーレンの本で見たことがあるが、アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』で、肉体を持たない精神生命体である宇宙人が、ミスター・スポックの肉体の中に入った時に、「なんて寂しいんだ!」と言ったらしい。
このお話は、ひょっとしたら人類は、それほど寂しい状態に置かれているのだということを示唆しているのだと思う。
もし、集合意識が在るのであれば、神話や昔話は、集合意識の中で強いエネルギーを持っていると思われ、それらを通して、集合意識にアクセス出来るかもしれない。
あるいは、集合意識が存在する無意識の深奥に最もうまく入り込める方法は宗教儀式だとも考えられる。
だが、宗教が形骸化し、その役割は芸術に移ったと言う人もいる。
そもそも、芸術は宗教から生まれたと言われる。
だけど今でも、敬虔な、あるいは、荘厳な宗教儀式によって(それには芸術の助けも有効だろう)、無意識の深層に入り込める人もいるだろう。
そして、昔から、宗教を極めた人達は、集合意識のさらに奥が、神仏の領域であると気付いていた。
だから、無意識から集合意識へ、さらに、その奥へと進むことで、神意識に到達し、それを、悟りとか、解脱、あるいは、真我の実現とか、キリスト意識への到達などと言うのだが、それが宗教の究極の目的の1つであるのだと思う。
法然や、それ以前の中国の善導、道綽らは、修行や儀式で仏の領域に至るのは難しく、現在は、それが出来る唯一最高の方法が、念仏を唱えることであると教えた。
その中で、もっぱら阿弥陀如来の名を唱える「南無阿弥陀仏」という念仏を最上として奨めたのは、理屈で言えば、集合意識の中の阿弥陀如来のイメージが、他の仏に比べ、歪みや汚れがなく、しかも、エネルギーが大きいからだろう。
しかし、実際は、その人の、個人的、あるいは、民族的信仰であるとか、個人的な無意識のイメージが大切なので、どの神仏の名が最も良いかは何とも言えない。
インドでは、最も良い神仏の名がクリシュナという場合もあるし、日本では、今はともかく、昔であれば、アマテラスであったかもしれない。
あるインドの聖者は、唱えるのは、どの神の名でも良く、それは、海は繋がっているのだから、どこの海に飛び込んでも同じだからというようなもので、むしろ、神を区別しない方が良いと教えている。
確かにその通りで、各自、自分が好ましいと思う神仏の名を唱えれば良い。
私は、ターラー菩薩(ターラ菩薩、多羅菩薩)への信仰を深めているが、ターラー菩薩の最も重要な真言は、
「オーム・ターレ・トゥッターレ・トゥレ・スヴァーハー」
である。※『実践チベット仏教入門』(春秋社)142ページより。
しかし、神の名を唱えるナーマスマラナが最も重要であるという教えもあり、ただ、「ターラー」と唱えたり、心で想っても良く、私はもっぱらそうしている。
ディヤーガラージャという人は、六千万回近くラーマ(『ラーマーヤナ』の主人公)の名を唱え、ついに、ラーマに逢った(神意識に到達したということと思う)という(サティヤ・サイ出版協会『ナーマスマラナ』42ページより)。
私のターラー菩薩への信仰は、単に、初音ミクさんがターラー菩薩の化身であるという個人的観念に過ぎないが、そのようなものが大切なのである。
つまり、人間にとって、感情ほど重要なものはない。
ダライ・ラマ14世は観世音菩薩の生まれ変わりで、政木和三さんは八幡神(八万大菩薩)の生まれ変わりと称していると思うが、それを信じることを他人に強要するのでない限り、別にとやかく言うことではない。おそらく、ある意味、誰がそう言っても正しいのだと思う。
また、他人のことを、自分の見解でとやかく言わないことで、自分も信念を持てるのである。
尚、初音ミクさんを受け入れることが出来るのは、実際は、豊かな国や地域だけなのである。
早くチベットで初音ミクさんが歌う日が来れば良いと思う。
私は、宗教には何の関心もないが、心理学を含めた、あらゆる研究や思想等を参考にして、生命力を高め、よりよく生きることも出来るのだと思う。
それを上のように簡単にまとめたので、役に立ちそうなところは取り入れていただければと思う。
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雪が溶け、地面にも所々に緑が広がり、気が付かなければ見落としてしまいそうな小さな花々が咲き誇っています、梅の花が甘い香りを漂わせ春の息吹が日に日に活動を始めています。
仕事の速い人は、もう畑の準備を始めています、そんな動きを見ていると、敢えて「集合意識」などと言った言葉が無かった時代から人も動物も昆虫も植物も季節の遷り変わりと共に「今すべき事」を役割分担しながら「地球」が一つの生命体として複雑で繊細な調和を営んでいる事を感じさせられます。
人が動いて「働く」は「はたらく=傍楽=傍らを楽にする」と書きます、本来の人の役割は「働いて(人が動いて)廻りを楽にする(助ける)」なのかも知れませんね。
庭師をガーディアン(守護者・番人)と呼ぶのも「人が動いて自然の手助けをする」働きが出来るからかも知れません。
隣町に「空気神社」が有ります、呼吸を止めるとものの数十秒で苦しくなってきます、地球の上で重力に次いで万人に公平に与えられている「空気」、無意識のうちに皆が共有しているのでしょう。
狭い通勤電車のラッシュの中、もし自分が吐いた空気に煙草の煙の様に色がついていたとしたら、、、。
意識だけじゃなく「体」も集合体に思えてきます、見方によって空気は「水槽の中の水」と同じ働きをしていませんか。
「空気の海」を私達は泳いでいます。
いつも良いお話を有り難うございます。