不意に、死の誘惑に襲われることがある。
そんな時に、その正体を見極めようと考えてみた。

人間の望みは2通りある。
1つは、喜ぶこと。
もう1つは、平安だ。
前者は生の望み、後者は死の望みだ。
人間が、生きたいと願うものであると同時に、死にたいと願うものであることは、フロイトも気付いていた。

そして、人間は、意志の力を働かせないと、死の誘惑に引っ張られていく。
絶対的な休息が欲しい、楽になりたいと思うのは、死に誘われているのである。
死は、究極の気持ちよさと思えてしまうのだ。

だが、人間の心臓の中には、「生きろ」という指令が組み込まれている。
まだ生命力があり、生きなければならないのに、死の誘惑に引っ張られている・・・そんな時に、人は、人生を悪いものだと感じ、不安に苦しめられる。
生命力がある者にとって、死は恐ろしいものでもある。
しかし、恐ろしいが、死にたいと思ってしまう。
そんな想いに囚われると、言いようのない不安に苦しみ、人生を耐え難い刑罰と感じ、やがては、何もかもが嫌になる。

一見、喜びを求めているようで、死を求めていることも多い。
それは避けなければならない。そのために行われるようになったのが、貴族の狩猟である。
ヨーロッパの貴族は、狩りを紳士のスポーツと考えている。
貴族でなくたって、比較的豊かな人間は、ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』第3幕中の『狩人の合唱』で、狩りの楽しさ、勇壮さを歌い上げられているのを聴くと、極めて爽快に感じる(オペラを聴こうなんて者は、ある程度豊かだ)。
この歌は、生の喜びに誘うものである。
それに対し、刹那の喜びは死に誘う喜びなのだ。
上にも述べた通り、人間は、自分の意志で生の喜びに向かわないと死の誘惑に引っ張られていくので、貴族達は狩りで生命力を回復しようとしたのである。
狩りは、やり始めると、とりつかれる。
それは、生命力を燃やし、死から離れていこうとするものなのだが、そこに死の誘惑が混ざると、狂気に襲われる。
狩りと似たものに祭りがある。
だが、狩りも祭りもない現代人は、死の誘惑が強くなる。
そして、刹那の快楽を求める。
現代人にも、祭りのようなものが必要だが、それに気付いて、ロクでもない祭りで儲けようとする者もいるから注意が必要である。

2003年の大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』で、浪人者の武士、内山半兵衛が、剣豪になる前の若き武蔵に、「どんな時も生きようと思え」と教える。
しかし、自分は戦いの中で死んでしまう。
だが、生きようと思えば死なないはずである。
それで、半兵衛の教えを覚えていた武蔵は、どんな絶体絶命のピンチの中でも生き延びた。
では、なぜ半兵衛は死んだのか?
それは、半兵衛には生命力が残っておらず、死の誘惑に勝てなかったからだ。
半兵衛も、それは自覚していた様子だった。

あなたは、生の喜びを求め、生き続けなければならない。
それは、刹那の喜びであってはならない。
だが、あなたは、何もかも面倒になり、刹那の快楽や、絶対的な休息を欲しがるようになる。
そんな時、本物の喜びに向かって生きようと思うかどうかで、運命が決まる。
本物の喜びに向かうことが、「ゆるまないこと」で、刹那の喜びや、絶対的な休息に向かうことが、「ゆるむこと」である。

他人の指示に従っている限り、本物の喜びは見えない。
所詮、人間は自分の道を自分で選び、その道を行くしか、幸福になる方法はないようである。
だが、とにかく、生きようと思うことだ。
死んでたまるかと思うことだ。
だが、道は自分で見つけなければならない。









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