目の前にリンゴがあれば、そのリンゴは確実に存在しているように思える。
触ったら指に感触があるし、手に持てば重みを感じる。

しかし、催眠術によって、実際にはないリンゴをあるように感じたり、触ったり、持ったり、そして、食べる幻覚すら持てるかもしれない。
あるいは、夢の中で一角獣に会い、それが現実であると感じても、目が覚めれば、それは現実ではなかったと分かる。

では、自分は今、目が覚めていて、この状況は夢ではないと思っていて、催眠術にもかかっていないので、目の前にあるリンゴは本物であるかというと、それを確信出来る方法はないのだ。
なぜなら、我々が五感で感じることは、実際は、脳が感じているだけであり、脳の外でも本当に感じている通りなのかどうかを確認する方法などないからである。

デカルトは、「思っている私」は確実に存在していると言ったことになっている。
それに関してはとやかく言うまい。
神秘家によっては、それを否定する者も少なくないが、彼らの説明は難しかったり、支離滅裂だったりして納得出来ない。
「思っている私」は、確かに存在している・・・としよう。
ただ、「思う」とは脳の働きであり、脳自体は物質に過ぎない。
だから、実際に存在すると言えるのは脳の生命力である「意識」なのだ。

眠っていたり、失神したりしているのでない限り、意識はある。
そして、意識があるということだけは確信出来るのである。

だから、デカルトの言うことを少し進めるなら、「確かに意識がある」ということになる。
この「意識がある」という感覚に集中すれば、神秘的なことが起こる。
ただし、ゆるんだ集中では駄目だ。
力のない集中は、とぎれとぎれの集中であり、雑な集中であり、不安定な集中だ。
そうではなく、意思の力を込め、全力で集中するのだ。
さて、ここで「意思」というものが出てきた。
意思とは、エネルギーなのだ。
その意思の全ての力を、意識に集中させるのである。

さて、意思の力を注ぎ込み、意識に集中すると、心にとっては奇妙なことが起こる。
「我思う、ゆえに我なし」
「我思わず、ゆえに我あり」
別に禅の公案でもなんでもない。
自然にそう了解される。
ただ、心で認識するのではないから、頭で分かる訳ではない。
直感で理解するのである。
そうなれば、あなたは、かなり物質世界を支配するようになっているだろう。

最初のうちは、「私は在る」、「意識が在る」と言葉で想っても良い。
たとえ、初めは、この身体1つ分でもいいから、「私は在る」と想うのだ。
聖書にも、神は、「私は存在する者だ」と言う。
これを、よく言われるように、「私は在りて在る者」だの、「私は『私は在る』という者である」といった、変な日本語を使う必要はない。
「私は在る」でよろしい。
そして、我々は、強い意思の力で、その感覚(私は在る、意識が在る)に集中するのだ。
すると、すぐに身体が軽くなるのを感じ、不意に気楽になるだろう。









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