やることがなくなってしまうことがないだろうか?
仲間外れにされたり、最初から仲間がいない場合は、よくあるものだ。
ニートというのも、結局は、仲間外れからなるのだと思う。
仲間がいるようでも、本当の仲間でなければ、やっぱりやることはなくなる。
つまり、1人で何かをやり続けるのは、難しいということだ。
コンピューターゲームは、疑似的な仲間が出来るので、それなりに熱意が湧く。
コンピューターゲームのオセロのようなものであっても、対戦してくれるアプリが一種の仲間なのだ。
しかし、それはあくまで、バーチャルな仲間で、深みがないので、いずれは熱意を失う。

私がニートだった時は、ゲーム機などは持っていなかった。
それで一人遊びを工夫したのだが、ここで面白いことが起こった。
子供の1人遊びを観察すれば分かるが、自分を分裂させて仲間を作っているのだ。
私も、それと同じようなことをしていたのだと思う。
多重人格の原因は色々あるだろうが、このように、仲間がいない者が、自分を分裂させて想像の仲間を作ることではないかと実感するのだ。
孤独に育った子供というのは、多重人格とは言わないまでも、その傾向があると思う。
私も小さい時から孤独癖があったせいか、多重人格気味である。

多重人格者は、色々な人格を持ち、多面性があって良いようにも思えるが、重大な欠点として、1つ1つの人格が小さくて弱くなってしまうのだ。
実際、多重人格者の人格を1つに統合すると、強く深い人間になる。
とはいえ、多重人格を統合することは難しい。
バンドラーのNLP(神経言語プログラミング)の本だったと思うが、実に単純にそれをやる方法が書かれていたが、あれでは無理だと思う。

自分が多重人格者であることに気付いていない場合が多いと思うが、多くの人格を持っていれば、自我の土台が強固でないので、脆く、不安定だ。
いわゆる「切れやすい」者というのも、多分、多くの人格を持っているのだ。
社交的でない人間は、ほとんどが多重人格気味なのだと思う。
ある時は宗教に興味を持って、そんな本ばかり読んでいたと思うと、別の時には、技術的なことにしか興味がなくなる。
そして、そんなサイクルがくるくる繰り返される。
実によくあることだ。

ところが、作り出した人格が消えることもある。
かつては物凄く夢中だったものに対し、不思議なほど興味がなくなってしまったという場合がそうだ。
女の子が小さかった時に、とても大切にしていた人形に、やがて興味がなくなるというのも、成長したというよりは、人格の1つが消えたのかもしれない。
実際、幼い時に複数の人格を持っていても、大人になるごとに人格が統合されるものだ。

だが、現代のほとんどの人の人格は分裂しており、しかもまずいことに、悪い人格が支配的になっているのだ。
これが、新約聖書で言う、多くの悪魔にとり付かれた状態に近いかもしれない。
そうなることを避けるためには、なるべく暇にならないことだ。
そして、人格を統合するためには、確かな規律を1つ定めることだ。
単純な方法を挙げれば、『バガヴァッド・ギーター』を唯一の規範の書とし、他は見ないという手もある。
『バガヴァッド・ギーター』は優れた聖典であると思うが、そうではなく、たとえ、少々怪しい教えでも、それによって1つに統合された人は案外強いものである。
デカルトの『方法序説』は、デカルトが言うような、理性を導くというよりは、やはり、人格を統合する方法なのだと思う。その意味でも、大いに参考になると思う。









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