インドの聖典である『バガヴァッド・ギーター』や、ゲーテの『ファウスト』を読むと、つくづく、人間は、怠ることなく励まなければならないのだなと思う。
何に励むかというと、『バガヴァッド・ギーター』では、行うべき義務であり、その中には世俗の仕事も含まれている。
神クリシュナは、「義務を果たせ」、「怠惰になるな」と言う。
また、『ファウスト』では、神は、怠ける人間には悪魔をつけて、酷い目に遭わせて目を覚まさせるのだということを述べている。

一方、法然や親鸞は、念仏以外、何もしなくて良いと教える。
彼らの教えに対しては、明恵や日蓮といった優れた僧達や、あるいは、宮沢賢治らは大いに反発した。
ただ、一休、良寛らは、法然や親鸞の教えを大絶賛した。

さて、どちらが・・・つまり、ギーター&ファウストチームと、法然&親鸞の師弟コンビのどちらが正しいのだろう。
怠け者の私としては、念仏の教えが好きであるが・・・

しかし、どちらも同じなのである。
念仏だけしていればよろしい。
だけどね、何もしないつもりでも、絶対に何かしてしまうものなのだ。
『バガヴァッド・ギーター』をよく読むと、そんなことがよく分かるのである。
そして、何をするかは、その人間の精神性次第だ。
それ(精神性)を良くするためには、ただ念仏をすれば良いのだが、法然、親鸞の時代と今は違う。
この情報社会で、阿弥陀如来世という固有の仏様や、あるいは、クリシュナという名がついた神様を無条件に信じられるかというと、現実的にそれは不可能だ。
しかし、いかに現代人とて、幼い頃に刷り込まれた宗教の教えは手強く、阿弥陀様は阿弥陀様、イエス様はイエス様と分けて考えずにはいられない。
阿弥陀如来とクリシュナは同じものだと言ったら、それぞれの信仰者に怒られるのは間違いないが、絶対に同じなのである。
阿弥陀如来は、インドのアミターバとかアミターユスという仏様の名前を音写したものだが、それぞれの意味は、無限の光、無限の生命だ。
クリシュナは自分のことを、「根本の根本」、「一切」と言うが、それはつまり、本質的に、アミターバやアミターユスと同じである。

『ファウスト』でも、悪魔メフィストにすら小馬鹿にされるファウストを、神がなぜ買っているかというと、ファウストは何だかんだ言っても、常に神に目を向けているからだ。
ファウストは迷ってばかりであるが、やがてはいつも神に向かって顔を上げるのだ。
神がファウストを可愛がる理由はそれなのだし、他には特にない。
そして、クリシュナも、「私だけを常に愛せ」と言い、法然や親鸞も、「ただ阿弥陀如来を誉め称え、阿弥陀如来にすがれ」と言ったのだが、全く同じことなのだ。
他に何もする必要はない。
ただ、それでも、人間は何かしてしまうし、善か悪かは分からないが、大それたことすらやってしまうのだ。
それは仕方がない。
だが、それでいいじゃないか。

いかに現代人とて、賢い人であれば、神がいないと考えることはおかしなことである。
そして、神の方を見て、神を目指すという考え方がおかしいはずがない。
それが難しいなら、それはむしろ、世俗の偏見があるからだと思える。
人間も自然も宇宙も、ちゃんと見れば、神秘以外のなにものでもなく、全てが奇跡なのだ。
科学的に考えようが、宗教的に考えようが、神はあからさまに「いる」ではないか?
本当かどうか知らないが、スティーヴン・ホーキングが、「神はいない。全てはいずれ科学で説明がつく」と言ったらしいが、もし、本当にそう言ったのなら、彼は単に勉強不足だ。
しかし、そうではなく、彼の神や科学の観念が、我々凡人とかけ離れているだけで、彼だって、『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナや、『ファウスト』の神と、そう違うことを言っている訳ではない。ただ、少し硬いとかいびつとかは言えるかもしれない。

何もせずとも、念仏さえしておれば良い。
そして、現代人にとっての念仏とは、ただ、顔を上げて微笑むことである。
うつむいていることに気が付けば、顔を上げることだ。
神様は上にも下にもおられるが、人間は天の方向に神様を見るように出来ているのだから。









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