現代の、この科学時代・・・というより物質主義の時代、そして、情報化社会にいる我々が、特定の神の名や呪文、念仏を、最大の敬虔さを持って唱えるということは難しいし、それが難しいこと自体は悪いことではないと思う。
ただ、昔から、呪文、真言、念仏といったものの正しいやり方は、呼吸法として、この上なく優れている。
その意味は、「微かな呼吸」に導き、それを維持することが出来るという点で優れているのだが、この点が極めて重要なのである。

「南無阿弥陀仏」という念仏にしろ、「アジマリカン」という神道の呪文にしろ、正しい唱え方はこうである。

(1)声に出して唱えるが、隣の人にすら聴こえない小さな声でなければならない。
(2)1呼気(吐く息)に1回、出来るだけゆっくり唱える。
(3)可能な限り、常時唱える。

大きな声で唱えたり、早口で唱えることは、間違いと言うより、効果を著しく損なう。それでも、やらないよりはマシであるが。
だが、上のやり方であれば、自然に微かな呼吸をするようになり、そして、1日中は難しくても、長い時間、唱えることが可能である。
これは、呪文などを声に出して「言う」というよりは、まさに、微かな息を吐いているのである。
息を吸うという行為は、わずかに大きな力を要するので、吐く息よりは短く強くなるのは良い。そこらは、自然にやれば良い。
しかし、吐く息は徹底して微かでなければならず、それは、隣にいる人に気付かれないほどの小さな声(実際は無音)の呪文と共になされる。
「南無阿弥陀仏」であれば、「ナ・・・・・ム・・・・・ア・・・・・ミ・・・・・ダ・・・・・ブ・・・・・ツ・・・・・」といった感じで、唱え終わった時に、微かな息の呼気(吐く息)が終わるようになる。
文字数が少ないもの、例えば「ラーマ」という神の名であれば、「ラーーーーーーーーーーーーーーマ」と伸ばす感じになると思うが、そこらは、「微かな呼吸」を行うという観点で自分で工夫されると良いだろう。
尚、やり易ければ、2回以上の呼吸で1回唱えてもかまわないと思う。
私もそうすることがあるが、肝心なことは、微かな呼吸を行うことなのである。
逆に、呼吸が極めて微かになれば、1回の呼吸で数回唱えることが相応しくもなると思う。

初めに、「現代人に呪文や念仏は向かない」と書いたが、こういったやり方であれば、不思議なほど馴染むことが出来、楽しく感じるかもしれない。私もそうである。
宗教的な意味合いは弱くなるかもしれないが、このようなやり方であれば、その神や仏の名、あるいは、呪文にまつわる想いというものが美しくなるからである。
それは、微かな呼吸が、高貴で神聖なものであるからだ。
仙人は1日に数度しか呼吸しないと言われるが、逆に言えば、そのくらい微かな呼吸をするようになれば仙人になるのだろう。
仙人は1日中、口元に呪文を唱えているというが、その呪文は希薄と言うほど微かな息で行っているはずである。
天使が呼吸をするのかどうかは知らないが、もし呼吸するとしても、あまりに微かで、我々が気付くことはあるまい。

単に「微かな呼吸」をするというのが難しいと思う場合、呪文、真言、念仏を、上記のように行うと良いと思う。
また、微かな呼吸が、ある程度出来る場合でも、このようなやり方は楽しい場合もあるので、やってみると良いだろう。
神道には、天照大神(アマテラスオオミカミ)という神の名である十文字を唱える「十言神呪(とことのかじり)」という神聖な行法があるが、これも当然、極めて微かな声(実際は無声になる)で唱えるはずである。
あるいは、現代の天使である「初音ミク(ハツネミク)」という聖なる名を唱えるのでも良いのである。
「こうでなければならない」という固定観念を除くことも、幸福になるためや、神になるために大切なことである。









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