お釈迦様が、たまたま羅刹(人を食う悪鬼)の歌を聴き、その歌の文句の中に究極の真理があると感じ、羅刹に、その歌を教えてくれるよう懇願した。
羅刹は、「教えた後で、お前を食わせてくれるなら良いぞ」と言い、釈迦は了承する。
釈迦は、歌を教えてもらった後、その歌を岩に刻み込み、思い残すことなく羅刹に身体をくれてやろうとした。

だが、私は、釈迦に、「やめとけ」と言いたいのだ。
今日、究極の真理と感じたものであっても、明日には、もっと良いものを思いつくものなのだ。
では、真理とは何か?
それは、釈迦が「これが真理」と感じた、その瞬間のことなのだ。

ところが、デカルトという人は、真理を探し求め、ついに、「我思う、ゆえに、我あり」という究極の真理を発見し、それは、生涯、訂正しなかった。
これは凄いことだ。
ところが、ルドルフ・シュタイナーは、
「我思う、ゆえに、我なし」
「我思わず、ゆえに、我あり」
と、ふざけてでも、ひねくれてでもなく言ったが、こちらも真理である。
しかし、それは言葉で説明すると嘘になる。
ただ、これらが真理であることは、見れば分かる。
逆のことを言っているようでいて、デカルトもシュタイナーも共に正しい。
デカルトは心身の立場で言ったのだし、シュタイナーは霊の立場で言ったのかもしれないが、心身も霊も同じだ。よって、両方正しい。

真理とは閃きだ。
閃きには時間がない。
究極の真理は愛なので、愛は瞬間の輝きであり、時間がない。
シラーは、愛を歓喜と言い、それは、霊感、あるいは、神々の火花、あるいは、楽園の乙女と言ったような気がするが、全て、閃きの一瞬のことだ。
言葉を飾り過ぎなんだよ、シラーたんと言いたいね。
閃き、一瞬、瞬間は、いずれも、無限小の時間で、実際は、時間がない。

オーソン・ウェルズが25歳の時に、監督、脚本、主演をした『市民ケーン』という映画の中で、ある老人が、「少年時代に見た、白いパラソルを持った少女のことを、なぜか忘れずに覚えている」と言う。
老人は、だから、「人は、どうでも良いこと、何の意味もないことを覚えているものなのだ」と言いたい訳だ。
少年に何が起こっていたのかというと、白いパラソルを持った少女を見た時、時間が消えていたってことだ。
なぜ時間が消えていたのかというと、心が消えていたからだ。
時間は心が創っているのだ。
なぜ、少年の心が消えていたのかは、単に、いろんな偶然が重なってそうなったのかもしれない。
我々だって、美しい少女と目が合った時、一瞬、時間が消える。その一瞬の中に無があったのだ。
なぜ少女かというと、心が清らかな少女の瞳というのは、時間を消してしまう作用が強いからだ。
初音ミクさんと瞳が重なったことを空想するだけで時間が消える。つまり、愛が、真理がある。
なぜなら、ミクさんには心がないからだ。

真理とは何かと、勉強したり、探し求めたりしなくても、真理は無の瞬間なのだから、どこにでもある。
どこにでもあって、どこにもない。
時間が心が創ったものであるように、空間もそうだからだ。
ただ心が消えた時に真理がある。
何かに夢中になっている時のことを、忘我、没我、あるいは、無我と言うが、それは、我がない、つまり、心がないってことだ。
夢中になっている時の中に、真理、愛がある。
夢中とは、本当に楽しんでいることだ。
あるいは、本気で打ち込んでいることだ。
昔、野球の清原和博さんが現役時代、スランプにあった時に、無敵の柔術家、ヒクソン・グレイシーにアドバイスを求めたら、ヒクソンは、
「野球に打ち込め、野球を楽しめ」
と言ったが、これは、無になれってことだ。
清原さんの場合は、野球でそれが出来たのだし、野球でやる必要があった。

だが、私なら、息を吸って吐く間に出来る。
息を吸い、吐く前の一瞬に無になるからだ。それは、誰でもそうなのである。
阿久悠さんは、「息を吸って止めた時に、曲がヒットすることをイメージしたら、必ずヒットする」と言ったが、無理に息を止めずとも、吸って吐く前に自然に止まっている。
その一瞬にイメージすれば全て実現する。
実現しないとすれば、欲があるので、心が消えていないからだ。心が消えなければ無にならない。
だが、静かに静かに息を吸えば、吐く前に、必ず息が止まり、心は消える。
イメージ自体は心のものなので、無理にイメージすれば無でなくなる。
イメージに、勝手にやらせれば良いのだ。
イメージは我々の味方なのだ。信用しろ。

流れ星が消える前に3度願えば叶うという。
しかし、「そんなこと出来ないよ」と言う。
出来るのだ。
これは、本当に、至高の願望成就の教えである。
心が消えた無であれば、3度でも百度でも千度でも。
『千と千尋の神隠』の主題歌『いつも何度でも』に、究極の真理があるはないか?

さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる

こんな無の瞬間、ゼロの体験は、誰にでも、何度でもあったのだ。
好きな人と目が合った時のことを覚えているだろう?
それなのだ。
それを思い出せば、もう恐れるものはないはずだ。
『いつも何度でも』、あるいは、初音ミクさんの『Chaining Intention』を聴けば、自ずと分かると思う。









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