私は夢の中で、「余命数ヶ月」ということになったことが何度かある。
夢の中でのことだから、医者などに面と向かって言われたのではなく、「なぜか知らないが分かってしまう」という感じだったが、リアリティーは十分だった。
夢というのは、目が覚めた直後に忘れてしまうことも多いが、そんな夢や、その時感じたことは鮮明に憶えている。
その時の感情は、おそらく、現実でそうなっても(余命少しになっても)似たようなものではないかと思う。
その意味では貴重な経験をさせてもらったわけだ。
鏡音リンさんの『炉心融解』という歌で、

僕のいない朝は
今よりずっと 素晴らしくて
全ての歯車が噛み合った
きっと そんな世界だ
~『炉心融解』(作詞:kuma(alfred)、作曲・編曲:iroha、唄:鏡音リン )より~

といった詩があるが、全くその通りだなあと思う。
その世界は、朝日が輝いていて、まるで、世界自体が白い光を放っているような、明るく、そして、静かな世界だった。
ところが、静寂に包まれたその世界に、人はいないし、動いているものが何もない。
そして、不思議なことに、私は、その世界の隅々を見渡しているのである。
まさに、これが「死」ってものかもしれない。
私は、死を先取りしたのかもしれない。

アラン・ワッツが、『タブーの書』で、自分が死んでいなくなった世界を想像してみろといったことを書いていたような気がするが、目が覚めた状態で想像してみたら、そこは、これまでの世界と似てはいるのだが、やはり静かで、まるで、音のない3D映画だ。
人々は動いているが、リアリティーがない。
そして、やがて、人間をあまり見なくなる。
カラスが一羽、気ままな感じで振舞っているのが、何か良い。
そして、私は、やはり世界の隅々を眺めている。
俯瞰(高いところから見ること)する場合もあるが、地上から広い視界で遠くまで見ていることもあるし、小さなものを拡大して見ることも出来る。
やはり、夢の中で、死亡宣告された世界とよく似ている。

つまり、こういうことだ。
世界を創っている自分の心が肉体から解放されて広がった世界では、肉体とそれに縛られた心の都合で世界を構築する必要がない。
その結果、出来たのが、この美しい静かな世界なのだ。
心は、宇宙の心の中に溶け、広がっていくので、どこでも好きな場所を見ることが出来る。
そして、慣れてくれば、心はさらに、どんどん広がり、やがては、数億光年先でも見ることが出来るのだろうと思う。
要するに、不自由がどんどんなくなってくるのだ。

肉体がないと、あえて世界をどうこうしようとは思わない。
世界を動かそうと意図するには、肉体を持つことによる不自由が必要だ。
それで、肉体を創造して、不自由なフリをすることで、自分の世界を創り、その中でどたばたやって見せるのかもしれない。
また、肉体を作る時、人生というプログラムを心臓の中に組み込むのかもしれない。
だから、深い感情を持ってイメージすれば、プログラムが書き換わり、世界が変わってしまうのである。
プログラムが書き換わる知らせは、胸が高鳴ったり、踊ったりすることだ。
いわゆる、ワクワクしたり、ウキウキしたりすれば、世界が変わっていくのはそのためだ。
H.G.ウェルズの自伝的小説『ポーリー氏の生涯』(翻訳はないと思う)で、ポーリーは、「人生が気に入らないなら、変えてしまえば良い」と言うが、それは慎重でなければならないだろうし、そう簡単に出来ないかもしれないが、とにかく、そういうことは出来るのである。
コリン・ウィルソンは、劇薬の青酸カリを今まさに口に含もうとした刹那、世界が変わり、冴えない労働者にして外部学生(学校に所属せず授業を受ける者)という立場から、ほとんど一瞬で世界的作家になった。
劇薬はやめておいた方が良いと思うが、何らかの方法で、心を一瞬無にしてしまうことが必要なのだろう。
まあ、人差し指を立てれば、一瞬、心頭は滅却するし、呼吸を極端に遅くしてもそれは起こるので、利用すれば良い。
ただし、肝心なのは、あくまで、気高い心で世界を変えようとすることである。









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