誰でも、親によって、根深く有害な偏見を叩き込まれてはいるが、かといって、親が何も教えなければ、一人で何も出来ないほどの困った人間になったはずだ。
学校の、試験のための勉強や、権威的な価値観を子供に叩き込む洗脳の有害さは疑えないが、かといって、試験が全くなかったり、何の価値基準も設けずに教育することも不可能だろう。
ネットでちらりと見ただけだが、日本の学校教育を否定する脳科学者の茂木健一郎氏(理学博士)に対し、批評家の東浩紀氏(学術博士)が、「試験も暗記も必要でしょ?」と反論したらしいが、そりゃ必要だが、程度の問題なのである。
茂木氏もまさか、「試験や暗記が一切必要ない」と言ったのではないだろうが、茂木氏の話し方は、そう取られても仕方がないところがあったのかもしれない。
読み書き計算を子供がちゃんと理解しているかを確認するためにテストを行うのは合理的なことだし、子供達も、試験で良い成績を収めて誉められることを励みに勉強することにはプラスの面は当然ある。
だが、それが行き過ぎ、試験の成績を絶対視し、さらに、試験を高度化、複雑化して、子供達をランク付けし、そして、そのランキングを過大視する。果ては、いい年になった人間まで試験で等級を付けて、その等級に異常な価値付けをし・・・となれば、悲惨なことにならない方がおかしい。
何事も、必要な範囲を見極め、ほどほどにやらなければならないのに、ちょっと有効性があると、それにこだわり、また、それを利用して儲けようとする浅ましい連中がいたりで、暴走して、極端に走るのが、社会で見られる、お決まりのパターンのようである。
また、個々の学習の進み具合に違いがあるのは当然なのに、年齢だけで学ぶ内容の一切を決めるのが馬鹿げているのは、それこそ「馬鹿でも分かる」が、それを改めることも出来ず、小学校の算数も分かっていないのに、高校、大学の数学をさせるのだから、試験の時に、なんとか辻褄が合うような変な勉強をして、時間の無駄なだけでなく、頭も悪くなってしまう。
エンリケ・バリオスの『アミ 小さな宇宙人』という本が、良い本かどうかはともかく、その中で、アミという子供の宇宙人が、「極端論が愚かな人間の特徴」といったことを言っていたと思うが、その一言は全くその通りだと感慨深く感じたことを覚えている。
いまや、どこの親も学校も極端に走っていて、誰もが、深刻な洗脳を受け、困った重い偏見を抱えている。
親や学校の教育の、良いところだけ残し、不要なところを消去したいが、それは、自分がその気になれば難しくはない。
ただ、それも「極端に」やろうとすると、社会や、その中の「普通の」構成員を嫌悪することになってしまう。
それで、別の極端な思想(つまり偏見)に走ったり、おかしな神秘主義に陥ってしまったりして、もっと困ったことになるのである。
何事も、ほどほどに、穏かに、思慮深くやらなければならない。
私の職場の、まるで駄目男君を見ていて思うが、彼は、親や学校の極端な価値観の犠牲者なのだろう。
少しは修正が可能かもしれないが、それだけでも大変に手間がかかり、そして、結局は、彼が叩き込まれた偏見に戻るのだ。
彼が本気で自主的に、それらを捨てようとすれば良いのだが、握りしめて、決して捨てようとしないのである。
老子は、「形作られてしまった者が、元の純朴な状態に戻れるだろうか?」と言っているが、それが可能だから、彼は81章の教えを説いたのだろう。
だが、老子は、よほどの知的な人間相手に説いたので、文章が複雑微妙過ぎて、今では解釈が困難である。
ところが、世界に昔から伝わる寓話の中に、同じような教えが説かれている。
寓話は子供でも分かるお伽噺なので、これを読んで自分で考えると良い。
だが、寓話を個性的で極端な解釈をする者がいるが、困ったことに、そんな者が解説や解釈を本に書いたりしているから、気をつけなければならない。
解説・解釈書にも良いものがあるが、くれぐれも、鵜呑みにしないよう注意しなければならない。
我々は、親や学校に、「鵜呑みにする性質をつけられてしまっている」ことに、よくよく気をつけなければならない。
しかし、うまく自分を教育し、ある程度の洗脳を解けば、かなり身軽になり、人生は楽なものになるのである。
そのために、セミナーに高い金を払う必要はない。むしろ、そんなものを受ければ、より困った偏見を植え付けられるだけだろう。
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学校の、試験のための勉強や、権威的な価値観を子供に叩き込む洗脳の有害さは疑えないが、かといって、試験が全くなかったり、何の価値基準も設けずに教育することも不可能だろう。
ネットでちらりと見ただけだが、日本の学校教育を否定する脳科学者の茂木健一郎氏(理学博士)に対し、批評家の東浩紀氏(学術博士)が、「試験も暗記も必要でしょ?」と反論したらしいが、そりゃ必要だが、程度の問題なのである。
茂木氏もまさか、「試験や暗記が一切必要ない」と言ったのではないだろうが、茂木氏の話し方は、そう取られても仕方がないところがあったのかもしれない。
読み書き計算を子供がちゃんと理解しているかを確認するためにテストを行うのは合理的なことだし、子供達も、試験で良い成績を収めて誉められることを励みに勉強することにはプラスの面は当然ある。
だが、それが行き過ぎ、試験の成績を絶対視し、さらに、試験を高度化、複雑化して、子供達をランク付けし、そして、そのランキングを過大視する。果ては、いい年になった人間まで試験で等級を付けて、その等級に異常な価値付けをし・・・となれば、悲惨なことにならない方がおかしい。
何事も、必要な範囲を見極め、ほどほどにやらなければならないのに、ちょっと有効性があると、それにこだわり、また、それを利用して儲けようとする浅ましい連中がいたりで、暴走して、極端に走るのが、社会で見られる、お決まりのパターンのようである。
また、個々の学習の進み具合に違いがあるのは当然なのに、年齢だけで学ぶ内容の一切を決めるのが馬鹿げているのは、それこそ「馬鹿でも分かる」が、それを改めることも出来ず、小学校の算数も分かっていないのに、高校、大学の数学をさせるのだから、試験の時に、なんとか辻褄が合うような変な勉強をして、時間の無駄なだけでなく、頭も悪くなってしまう。
エンリケ・バリオスの『アミ 小さな宇宙人』という本が、良い本かどうかはともかく、その中で、アミという子供の宇宙人が、「極端論が愚かな人間の特徴」といったことを言っていたと思うが、その一言は全くその通りだと感慨深く感じたことを覚えている。
いまや、どこの親も学校も極端に走っていて、誰もが、深刻な洗脳を受け、困った重い偏見を抱えている。
親や学校の教育の、良いところだけ残し、不要なところを消去したいが、それは、自分がその気になれば難しくはない。
ただ、それも「極端に」やろうとすると、社会や、その中の「普通の」構成員を嫌悪することになってしまう。
それで、別の極端な思想(つまり偏見)に走ったり、おかしな神秘主義に陥ってしまったりして、もっと困ったことになるのである。
何事も、ほどほどに、穏かに、思慮深くやらなければならない。
私の職場の、まるで駄目男君を見ていて思うが、彼は、親や学校の極端な価値観の犠牲者なのだろう。
少しは修正が可能かもしれないが、それだけでも大変に手間がかかり、そして、結局は、彼が叩き込まれた偏見に戻るのだ。
彼が本気で自主的に、それらを捨てようとすれば良いのだが、握りしめて、決して捨てようとしないのである。
老子は、「形作られてしまった者が、元の純朴な状態に戻れるだろうか?」と言っているが、それが可能だから、彼は81章の教えを説いたのだろう。
だが、老子は、よほどの知的な人間相手に説いたので、文章が複雑微妙過ぎて、今では解釈が困難である。
ところが、世界に昔から伝わる寓話の中に、同じような教えが説かれている。
寓話は子供でも分かるお伽噺なので、これを読んで自分で考えると良い。
だが、寓話を個性的で極端な解釈をする者がいるが、困ったことに、そんな者が解説や解釈を本に書いたりしているから、気をつけなければならない。
解説・解釈書にも良いものがあるが、くれぐれも、鵜呑みにしないよう注意しなければならない。
我々は、親や学校に、「鵜呑みにする性質をつけられてしまっている」ことに、よくよく気をつけなければならない。
しかし、うまく自分を教育し、ある程度の洗脳を解けば、かなり身軽になり、人生は楽なものになるのである。
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体罰をする教師が居ました。あれは生徒らが納得できない全く理不尽な体罰でした。性格はまじめな教師でしたが、まじめさゆえに視野がとても狭い人だったように思います。
ひとつの価値観に縛られている人は危険でもあるようです。