ヨガ指導者も西洋の啓蒙家も、よく、「バランスが大切」と言う。
バランスとは何だろう?
極端に過ぎず、何事も、ほどほどにということなのだろう。
仕事熱心も良いが、自分の健康や、家族との関係を顧みないほどであってはならないというのは、「仕事と、家庭や健康とのバランスを考えろ」ということなのだろう。
お洒落も良いが、分不相応な、あるいは、あまりに多くの服やアクセサリーを持つのも、バランスに欠けているということだと思う。
酒を飲むのもほどほどに、勉強や修行や趣味もほどほどに・・・という訳だろう。
だが、何事も、まず、徹底的にやるべきである。

チームラボの社長で、世界的デジタル・アーチストである猪子寿之さんが、あちこちで、こんなことを言っているのが、ちょっと面白い。
「西洋では、バランスがとれたものが美しいという発見をして、バランスがとれた美しいものを作り続けて、クオリティを上げていった。しかし、日本では、たまたまバランスがとれていない美しさを発見して、それを進化させた。」

岡本太郎が言った、「今日の芸術は、うまくあってはならならない、きれいであってはならない、いやったらしくないといけない」という言葉が有名だが、これは、西洋の「バランスのとれた美」を否定した言葉とも思えるのだ。
西洋での「うまい」「きれい」は、バランスがとれていることである。
そして、「いやったらしい(凄くいやらしい)」というのは、大いにバランスを欠いているということである。
岡本太郎らしく言えば、「バランスなどクソ喰らえ。均衡を壊せ」ということではないだろうか?

池田満寿夫さんも、徹底して均衡を壊した、バランスを欠く作品を創っていたと思う。
その最たるものが、「少し長い指をもったスフィンクス」で、西洋人女性を描いた銅版画で、その右手の人差し指だけが異様に長いのであるが、絵全体が、「アンバランスの極地」であると思う。

日本人は「バランスを欠いた美」という優れたものを持っていたのに、敗戦で、西洋式の「バランスのとれた美」を押し付けられて、すっかり駄目になったのかもしれない。
学校では、「前になれ(前に倣え・・・前の人と同じになりなさい)」と言って、皆が同じでなければならないとする。
それが西洋的バランスであり、これによって、平等で人道的であることが出来るという訳であるが、その平等なはずの国アメリカが差別の巣窟なのである。
皆同じを強要すると、どんどん狂ってくるというのは、当たり前と言えば当たり前なのであるが、そんな馬鹿なことを、魂の警告を無視してやってきたのが、戦後の日本の学校と、そこで教育(狂育)された者達が作った社会である。
岡本太郎は、それに噛み付いていたのだと思う。
だが、岡本太郎は、それを言葉でうまく表現しなかったので、単に「変わり者」、「おもしろいオッサン」と扱われることが多いのかもしれない。

だが、雲の流れや、濁流に出来る渦巻きなど、一見、秩序に欠けるものの中には、隠れた秩序というものが存在する。
それを解明する複雑系理論というものがあり、これは難解なものであるが、「無秩序に見えるものの中の秩序」に直感的に気付いていた人達もいたのである。
岡本太郎がそうであるし、レオナルド・ダ・ヴィンチもそうであった。
秩序とバランスは本質では同じと思う。

表面的にバランスのとれた美は浅い美である。
バランスを欠いたように見える美は、その奥に真のバランスを秘めた、深い美である。
もし、ヨーガが真理を示しているとしたら、それは、岡本太郎が言うような、「うまくない」「きれいでない」「いやったらしい」と感じるはずである。
きれいで、普通の理屈で納得出来るバランスを教えるヨーガは偽者だ。
そんな表面的なバランスは浅く、人生や社会の現実の問題の前では、全く無力だ。

我々は、学校で押し付けられた、「表面的なバランス」という見せ掛けだけの偽物を叩き壊さなければならない。
猪子寿之さんの代になって、やっとそんなことが、はっきりしてきたのかもしれない。
さすが、猪子さんは、初音ミクさんの熱烈なファンである。
だが、まだ、分からない、分かろうとしない人が多いのだ。









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