人生に失望したとか、絶望したと言う人、あるいは、思っている人がいると思う。
だが、その認識は的外れだ。
外面は全て内面の現れだ。
つまり、それは、失望すべき自分、絶望すべき自分がいるだけなのだ。

古い映画の喩えで言えば、人生や世界はスクリーンに映った映画で、映画のフィルムが自分なのである。
自分であるフィルムが絶望すべき内容であれば、映画は確実に絶望的なものになる。
だが、人生を見限る人は多くても、自分を見限る人はいないのだ。
ところが、どういうわけか、私は自分を見限ることが出来た。
謙遜でもなければ、誇張でもなく、自分が救いようのない人間であることが分かったのだ。

親鸞が、我々はどうしようもない浅ましい身であるから、阿弥陀如来に全てまかせてしまうしかないと言った話を時々したが、それでも、「でも、私はまかせ切れない」とか、「阿弥陀如来が私の前に現れてくれさえしたら」と言いたい人がいるだろう。
そんな人は、まだまだ、自分を見限っていないのだ。
自分は、わりと高貴だとか、あるいは、「あいつ」よりマシと思っているのだろう。
そんな人は、修行しなければならない。
そして、やっぱり自分が、修行なんか出来ない駄目な人間であることを思い知れば良いのだが、それならそれで、出来ない言い訳をいろいろするのだ。

完全に自分を見捨てた時、阿弥陀如来は、信じさせてくれるのである。
全て阿弥陀如来にまかせれば救ってもらえるということを。
そうなれば、人生は夢に過ぎないし、スクリーンの映像は、いかに恐ろしくても何の力もないことが分かる。
そこまでいけば、フィルムが変わらないとも限らない。
ただ、フィルムを変えることに、それほどの興味はなくなっているかもしれないがね。









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