「20世紀最大の詩人」と言われた、アイルランドのW.B.イェイツは、晩年、自分のことを「不良老人」と呼んでいた。
こう言うと、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーでも思い出して、
「不良老人?カッコいいじゃん!一生、ロックしてる感じだねえ」
などと言う人がいるかもしれない。
しかし、そんなんじゃ全然ない。
イェイツは、自分が不良老人でしかないことを思い知っていたのだ。
自分は、遂に最後まで、狂人のままであったのだということを、腹の底から確信し、僅かも疑わなかった・・・いや、疑えなかったのだ。
それは、死の直前になっても、全く変わらなかった。

誰しも、若いうち・・・いや、子供の時から、自分の心は正しいと信じている。
大人になったら、自分にも多少の欠点があることは認めるとしても、「もう少し年を取れば、立派な、賢い人間になる」と思っている。
そんな者達は、口で、「私は浅はかな人間です」と言った直後、心では、「ああ、私はなんて謙虚で慎ましいのだ」と、自分に惚れ惚れしているのだ。
「自分にだって欠点はある」と言っても、「完全な人間はいない」と言い訳するなら、それは、自分の欠点は大したことないと思っているのだ。
イェイツのように、自分が悪魔そのものと変わらないと悟る人間は、極めて稀なのだろう。

ドワンゴの川上量生会長が、ブログで、
「人間には多少の知性があるので、いつか、自分が救いようのない馬鹿だと分かる時が来る。その時が、人生の賞味期限切れだ」
と書かれていたが、多少の知性を持つ人間なんて滅多にいない。
つまり、普通の人の人生は、死ぬまで、賞味期間であり、自分がどうしようもない馬鹿だと思ったりはしない。
つまり、「馬鹿は死ぬまで治らない」のである。
イェイツは、認識という点では馬鹿が治った、稀有な例なのだろう。

だが、政情不穏な場所では、自分の中の狂気を自覚する人が多いのだと思う。
他人を騙し、脅し、駄目なら叩きのめさないと生きていけない地域のことだ。
日本人旅行者がものを盗まれて警察に行っても、「盗まれる者が悪い」と相手にされない所なんて、いくらでもある。
現地の人は盗まないと生きて行けないのだ。誰にだって、生きる権利はあるのだから、泥棒なんか少しも悪くない・・・というのが常識で通るのである。
そんなことをする人達でも、ほとんどが宗教を持っているが、彼らは、自分は戒律をだいたい守っており、そして、陽気で愛情深いと思っているかもしれない。
危険を冒して盗み、愛する家族を養い、時には、フレンドも助けるのだからだ。
だが、一部の、ちょっと進歩した人は、「いかに生きるためとはいえ・・・」と、この世の不条理を嘆くだけでなく、自分の醜さを憎む。
そんな人が、日本の『歎異抄』(実際に外国語に翻訳されている)を読むと、とりつかれることがある。
もちろん、日本のような平和な国に住んでいても、自分を見限るほどの者なら、やはり同じと思う。

『歎異抄』は、親鸞が、阿弥陀如来の救いについて話したことを、弟子の唯円が思い出して書いたものだ。
現代人は、阿弥陀如来のような仏様というものに抵抗があるかもしれないが、それなら、万能の超システムだとでも思うと良い。その通りなのだから。
阿弥陀如来は、自分に運命を託した人は、死後は、自分が造った極楽浄土に迎え入れ、自分と同じ仏にするが、その人が生きている間だって、完全に守るのである。
阿弥陀如来に救われるための条件は、ただ1つ。阿弥陀如来に一切をまかせるだけだ。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、その合図のようなものと思えば良い。
阿弥陀如来は、その声、その思念を確実にキャッチし、ランプの魔物など比較にならない強力な仏達を、惜しみなく、大量に派遣するのだ。人材、いや、「仏材」は、ガンジス河の砂の数ほどいるのだから、常に不足はない。
阿弥陀如来は、いかなる悪人であろうと差別しない。
逆に、救われるために、いかなる善行を行う必要もない。
むしろ、善い行いをしようとする者は、阿弥陀如来に頼る気持ちが弱いので、問題があると親鸞は言ったようだ。
「では、悪いことをすれば良いのだな」と勘違いして、わざと悪いことをする阿呆もいたが、それな者に対しては親鸞は、「よく効く薬があるからといって、毒を好む必要はない」と言いはしたが、咎めることはしなかった。彼が、そんな思い違いで悪いことをしたとしても、それも、縁なのだからだ。

私は、やはり、何かの縁があったのか、昔から(高校生の時からと思う)、自分のことを「不良星人」と読んでいた。
それでも、かすかな希望を持ってはいたが、最近になって、完全に自分を見捨てた。
それでも生きていかねばならないなら、万能ミラクル・システムAMIDA(阿弥陀。アミターバ)に頼るより他、仕方がない。
更生の望みのない犯罪者のようなものだ。
実際、中身は、そんな犯罪者と同じなのであるが、たまたま縁がなかったので、それほど世間を騒がせていないだけだ。
言い換えると、世の中を震撼させ、10年腐らせた生ゴミのごとく忌み嫌われる犯罪者とは、そんな縁のあった私なのだ。
親鸞は、心が善いから悪いことをしないのではないし、悪いことをしないからといいって心が善いのでもないと言った。
全ては、ただ、縁(業、カルマ)なのである。









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