短編の名作に、『星の王子さま』と『かもめのジョナサン』がある。
『星の王子さま』は世界で8000万部、『かもめのジョナサン』は4000万部売れているらしい。

『かもめのジョナサン』に心酔する者は危ない。
私もそうだった。
いったい、この作品の何がそんなに問題なのか?
それは、自分をジョナサンと同一視した場合に困るのだが、往々にしてそうなるのだ。
そうすると、かもめ社会の長老達を見下すようになってしまう。
何といっても、ジョナサンは、最初から最後まで穢れなき存在だ。
確かに、ジョナサン自体は、長老達に、「馬鹿」とも、「時代遅れ」とも、「利権を守りたいだけの老いぼれ」とも言わなかったが、読者はそう思うのだ。
だが、人間にとって大切なことは、自分が長老達の仲間であると、つくづく思い知ることなのだ。

『星の王子さま』も、かなり危ない。
『星の王子さま』では、王子さまは色々な星を訪問し、そこに住む「変な」者達を見る。
また、著者テグジュペリ自身の投影であると思う、このお話の主も、子供の時に出会った、世間の「変な」人達のことを語る。
そしてやはり、読みながら、ほとんどの人は、それらの「変な」星の住人や世間の人達を見下してしまうはずだ。
自分を、王子さまや、少年時代のお話の主と見なしてしまうのだ。
だが、それこそ、「変な」連中に負けない愚かなことなのだ。
自分が、あの「変な」やつらと全く同じだと、つくづく思い知る者だけが「まとも」なのに、まともな人間はほとんどいないのだ。

そして、わが国の短編『銀河鉄道の夜』も、やっぱり危ない。
ジョバンニは自分の愚かさについて思い悩むが、かおる(後から列車に乗ってきた女の子)の蠍の話で吹っ切れる。
蠍は、自分は沢山の命を奪ってきたのに、いざ、自分が奪われる時がくると必死で抗い、イタチを道連れにしてしまったことを後悔する。
そして、蠍は、神様に、「この次生まれてきたら、この身をみんなの幸せのために使って下さい」と祈りながら死ぬ。
ジョバンニとカムパネルラは、自分もそうあろうと誓い合う。
そして、カンパネルラは、実際にそんなことをしたからまずいのだ。
読者は、自分を、天に昇った蠍や、それに倣おうとしたジョバンニやカムパネルラに同一視してしまう。
この物語は、「いい人」だらけで、読んでいると幸せな気持ちになるが、それが危ない。
自分は誰に似ているのだろう?
それは、カンパネルラが命を捨てて救ったザネリしかいないのに、誰もそう思わない。
それが危ないのだ。
自分は、つくづく、ザネリ以下なのだと思い知る人間だけがまともなのだが、そんな者はほとんどいない。

ならば、やはり短編の『歎異抄』を読むと良い。
著者も、著者が話す師の親鸞も、自分がつくづく愚か者であると思い知っている。
そして、まともな読者は、自分は、この2人にも遠く及ばないことを感じるのである。
ただし、「つくづく」でなければならない。
しかし、やはり、そんな者は滅多にいないのだ。









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