中国の古典『列子』にあったお話だ。
王様は贅沢な暮らしをしているが、とても辛そうだった。
ところが、1人の奴隷の男は、辛い労働をしているが、楽しそうだった。
その理由は、王様は夢の中で奴隷になって、辛い労働を強いられるのだが、奴隷は夢の中で王様になって贅沢三昧できるからだった。
王様は、たかが夢で苦しみ、奴隷は、たかが現実で苦しまなかったのである。
ところが、王様が奴隷の仕事を楽にしてやるごとに、王様の夢の中での奴隷の仕事も楽になっていくのだった。

『列子』の中では語られていなかったが、王様が奴隷の仕事を楽にしてやるということは、その分、王様は、自分が受けるサービスを諦めるということだ。
また、奴隷は、仕事が減る分、楽になるだろうが、やはり、夢の中での王様としての待遇も落ちることになるのだろうと思う。

良い待遇を求めなければ、悩みは解決する。
今、自分が受けているサービス、得ている権利の中には、不要なものも多いはずだ。
それらを自主的に手放せば手放すほど、自分を縛っているものから解き放たれていく。
だが、特権的な、明らかに持つべきでないものでも、手放すのは辛い。
しかし、それをしなければ、もっと辛いことになる。

自分が受けている待遇の中で、最も基本的なものが食事だ。
だから、今、3つ食べているものを2つに減らすといったことをすると、不思議な良いことが起こる。
そして、十分に少食、粗食であれば、足りないものは何も無くなっている。
そうなれば、後は、食の慎みを保てば、ずっと安全である。
徳川家康だって、食事は大変に質素で、米も食べず、麦飯を食べていた。また、徳川歴代将軍も、皆、粗食で、庶民と同じ1日2食の者が多い。
将軍家の秘伝として、少食、粗食の効用が伝わっていたのだろうと思う。
つまり、徳川将軍家は、権力者の特権である贅沢な食事を放棄したので、その分、安泰だったのだろう。
また、家康は晩年、美食を楽しむようになって、病気になってしまい、尚更、食の慎みの大切さを悟り、息子の秀忠や信頼する重鎮に、くれぐれも食の節制をするよう命じたのだ。
そして、徳川最後の将軍、慶喜は、支配者の座を降りて後、望めば得られた良い待遇を求めなかった。それで、一生、楽しく過ごせたのだ。

周りを注意深く見回しても、食の節制の出来ない者は、やはり、うだつが上がらないし、長い間そうであると、辛い状況になっている。
年を取ってからも、食の放蕩(勝手きまま)を放置すると、かなり悲惨な最後になる。

自我は、良い待遇を放棄することに抵抗する。
特に、自我は食を慎むことを嫌い、それをしなくて良い理由を次々に見つけては訴えるだろう。
しかし、イエスのように、自我に対し、「汝、敗れたり。我が後方(しりえ)に退け」と命じるのだ。
だが、理想はそうでも、なかなかイエスのようには出来ない。
しかし、毎日、腕振り運動をたゆまず行えば、不思議とそれが出来るようになる。
なぜなら、腕振り運動自体が、自我を弱くするからだ。
そして、心の微かな声の呪文を唱えれば、1回で、自我をぱっと消してしまえるようになる。それは魔法的効果すらもたらすはずだ。









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